作法の類

作法に厳しく育ってないからか、余り頓着してない。が、ここでは、見た目の仕草と考えてみる。不快感の基準が個別に違う点は、いつも通り。他人が不安と主張して、容易に修正出来るならば、修正を拒否するのは抵抗がある。逆に、よりよく見せる為に多大な負担を強いられるのも、抵抗がある。新しい知らない作法は、沢山あるようだ。生まれてくる数と廃れる数がどれくらいかは、わからない。江戸時代から続く作法は、それなりに意味があるかもしれない。ただ、江戸時代は、知っての通り、お家の継続が前提の社会だから、ある時点の作法を守る家の存在の有無次第と考え、作法の意義の価値を重視する意味が見いだせない。継続の価値は、また別に考えてみる。ここまでで、以前の書き込みとし似たような感じがするならば、次も理解しやすい。コンテンツとコンテキストという言葉を思い浮かぶならば、作法自体のコンテンツより作法の作用としての枠組みであるコンテキストを重視しているということだ。主義主張であろうと、作法であろうと、その意味する内容というより、それの他人への関与を重視する。しかし、この話とは全く違うが、ごくごく簡単で新人向けの課題を十年を超える経験者に説明して、わからないと主張されて閉口した経験を思い出す。しかも、二度も。単にわからないと主張するだけで、何がわからないかの説明がないから、手の出しようが思い浮かばない。だから、その時は別の思惑を感じた。ここでの書き込みを、わからないと無反応は、まだ理解出来る。しかし、単にわからないと主張して、どこがわからないかの説明がなければ、手の下しようがない。まだ、そんな反応はないが、困る事態を例示した。作法については、まだ続く。仕草としたが、その深い意味と仕草も、以前の書き込みの技能伝承と似た構図がある。仕草という形を真似ることを目的とするのか、仕草という形を通して考えようとするのか、だ。実は、全く知らない。しかし、歴史を連ねている理由を想像すると、先の家業の理由と、この深い意味を思い浮かべる。仮に、深い意味があるならば、作法を通さないで取得出来る方法を考える、というより通さなくてはいけない理由に関心が向かう。合理的な理由というより、共有意識としての粋のような理由と想像はしている。合理的に考えるのは、粋ではないだろう。