作法の類の拡張

仕草に限らず見た目として、広い範囲を考える。例えば、有名スポーツ選手のフォームを真似る子供とか、好きな映画の印象に残る場面の真似とか、色々考えられる。さて、見た目としたが、身体の動作以外では発声は、どうみるか。もっと拡張するなら、操作する道具類にも及ぶ。道具類とは、乗り物まで拡張すると、見た目の範囲がほぼ見えるもの全てになりそうだ。筆記具とするなら、パソコンまで含むと、仕草から遠ざかる気もする。では、何と区別出来るだろうか。もしくは、区別する意味があるだろうか。一つとしては、人間が関与しないもの。もう一つは、他の人間から見えない人間の思考。区別が可能かを考えると、どちらも難しい。見たものが、人工物かの判断以外にも、どこまでを人間の関与と考えるか、という区別の考え方も、色々ありそうだ。表面に現れていない思考というのも、人間の行動は連続しているから、区別は難しい。ただ、区別の意味は、あるかもしれない。つまり、実際はともかく、思考だけの話としては、区別の意味が皆無とは、恐らくできない。ひとまず、以前の書き込みの理論と実際みたいな話ではある。ところで、拡張の範囲はともかく、真似たいとされる作法の類似は、他の作法に適用出来るか、を考える。つまり、例えば、有名スポーツ選手のフォームを真似たいとする気持ちみたいなことを、農作業に適用出来るか、みたいなことだ。この例でいえば、人気俳優が農作業をする名場面があれば、できるかもしれない、みたいなことになるだろう。ん~。理屈っぽいけど、そんなこと誰でも思いつくよ、と言われそうだ。例が悪いのか、余り意味がないのか、少し頭の奥にしまって、無意識の思考に任せてみよう。直感的には、江戸時代から続く伝統には、現在の商的行為の役に立つなにか、があるような気がする。いわゆるブランド構築は、その典型だ。ここまで来て、わかったことがある。見た目としたのは、根拠を明確に把握していないにもかかわらず、確たる判断をしてしまう、みたいなことを表現したかったのだと思う。それはそれでわかる。しかし、なんとなく一般化されていないので、感性としてちょっと抵抗がある。やはり、しばらく奥にしまっておこう。