真善美

真善美のうち、真と美にはあまりこだわらない。どちらかというと、真理至上主義かもしれない。美については、発生理由としてかなり関心が高い。好きな音楽の理由がよくわからない。それはそれとして、善については、批判的だ。なぜなら、暴力的に感じるからだ。合理的な理由があるから、善と感じると考えるからでもある。恐らく、動物も同様に善を感じていると思う。ただ、人間の様にあるべき道徳の体系として深い情感、ではなく単純で直感的な感情のようなものだと思う。攻撃的ではなく楽しめるような行動を歓迎するとか、見ていて楽しそうだとか、みたいな程度だ。では、人間の善については、というと、例えば、このようなことをすれば、相手が喜ぶだろうという類になると思う。その類は、必ずしも歓迎される訳ではないと考える。つまり、表面上の表情とは異なり内心は敬遠気味ということが多い。喜ぶだろうと、なにがしかの計算が働いていると暗に示しているようなものだ。この計算とは、見返りという狭い解釈ではなく、自己満足を含む。この自己満足に抵抗を感じている。率直にいえば、解釈が異なる可能性があるにもかかわらず、解釈の違いを確認せずに主張する一方だからだ。例えば、高齢者に席を譲る行為は、必ずしも歓迎されるばかりではない。高齢者扱いされて不快になることもある。では、その場面でいちいち確認すべきと主張している訳ではない。ここでは、切り分けて考えている。小さな場面ならば、その場限りになるだろう。しかし、と考える。広く社会に影響のある場合には、多くの支持が欠かせない。微妙なことは、広まるのを待つか、すりあわせが欠かせない。影響があるから、政治が扱うことが大半だろう。こだわる理由は、社会が複雑になっていく流れを重視するから。社会が単純であれば問題なかった場面が、次第に問題が生じるようになっていくと考える。価値観というか、相手は必ずしも自分と同様に捉えるとは限らない。一度戻ろう。真善美のうち善は、社会性が高い。複雑な社会に向かっていると意識するなら、対応策としてみなすのもあると思う。そして、恐らく合理的な理由が決め手の重要な部分になると考える。では、その理由は、というと先の書き込みで中断している例のアレだ。なんとなくいいたいことは、水の流れには逆らえない。つまり、合理的な理由が解明される可能性があるから、見つけようと努力する意味はあると感じている。その努力が適切な方法かは、わからない。という感じがなんとなくいいたいことだ。書きながら考えが整理されてきてる気はする。文章は、思いつきだけど。