作り話

小説も映画も主流はフィクションだろう。面白いから、それを批判する意図はない。しかし、作り話では整合性は重視されないから、全体の構成で破綻することがある。魔法のように、予め不自然な設定なら、その設定のまま楽しめる。でも、アイデア偏重で無理な設定には、不自然に焦点がいく。例えば、ありふれたタイムマシーンで、移動空間の物質はどうなるのか、つまり、今移動する前の空間に占めていた物質が移動するとして、移動後の空間はどうなるのか、移動前の空間はどうなるのか、辻褄はどう考えているのか、と突っ込みをいれたくなる。また、同じ人間が同じ時代に存在するとして、分子レベルでは殆ど代謝してるから、どのように同一と判定するのか、疑問になる。他人を楽しませる意図を汲んで、悪意で対応するつもりはないが、設定の不備に少々幻滅するだけだ。ところが、現実世界で破綻は有り得ない。破綻とするのは、理解力に欠けている。だから、理解の為の方法を編み出す源泉になる。普段の仕事も多分同じ。予定はフィクションだ。面白いフィクションは歓迎される。しかし、現実は整合性の世界だ。予定通りでなければ、その理由があり、解明で進歩する。そう考えれば、フィクションで得意げになる時に批判の基準を事前に設定するのは、有効かもしれない。ただし、整合性が求められる。単に数字に達した達しないでは、なんらかの合理的理由を求める根拠とは到底思えない。心積もりとしてならば理解できる。一度戻ろう。娯楽目的の漫画の楽しみに、娯楽目的以外の目的で意見を述べる立場にはない。しかし、娯楽以外の目的ならば、立場を有する。つまり、作り手と受け手とあれば、作り手に対しての立場なら堂々としていられる。整合性を基準とすべき、と主張しているのではなく、整合性は鏡の役目の道具だと推薦しているに過ぎない。肝心な部分とそれ以外でかける力量に差があるのは、力量に限界があるなら当然。焦点での不整合は、興醒め。部分ではなく、全体構成の視点で、だ。枠組み視点かも。逆の楽しみもあるかもしれない。どこかおかしいと見つける楽しみだ。それは、面白いかも。