推理小説

フィクションを楽しむことに、批判めいたことはしたくはない。ただ、そればかりの習慣の偏重は考えもの。というのは、脳内概念の関連の発達という点では疑っている。シリーズもので伏線とか登場人物の深まりとか、要するに関連して深めたり広げたりすることがなければ、断片的で何かにつながりにくい。それに後から気づいた。そして前回の続き。フィクションの楽しみの一つに推理ものがある。問題編と解答編にわけたとして、自分なりの解答が出せなかったら、解答編に進まず別の推理小説に着手するというのもある。幾つかを時間の合間に推理して、見通しをつけたら解答編に進むというものだ。しかし、これは複雑な登場人物や設定では無理があるかもしれない。それはそれとして、実は気に入らないことがある。それは、犯罪が対象になるからだ。問題編と解答編と、読者を驚かせ感心させる何かという枠組みならば、題材は犯罪に限定しなくてもいい。また、例えば、途中まで悪い役と思っていたのが、実は善良な役で感動する、というのもあるかもしれないが、この場合、問題編と解答編に分けにくい弱点がある。最近は小説を読まないので、こうした取り組みはなされているかわからない。最後の最後に、驚かせる仕掛けを用意する小説もあるようだ。広い意味では、含めたい気持ちもあるが、読者に事前に知らせていない点で、なんとなく姑息な手にみえるから、含めない方が無難だ。それから、歴史もので、独自の見解を題材にする話はよく聞くし、歓迎したい。歴史ものは、新たな史料で認識が変わりえる不安定な点はある。しかし、一定の常識は共有されている前提があるから、まるっきりのフィクションというわけでもない。そこは微妙だ。その設定自体を楽しむことでよさそうに思う。推理小説の問題編と解答編の枠組みだけなら、現実には沢山ある。むしろ、現実での取り組みの方が、色々と美味しい。同じ題材で楽しめる仲間が出来ると、次の似たような題材に取り組める可能性が高まる。和算は、その類だと思う。一度戻ろう。どうも、フィクションに抵抗があるようだ。どこにその理由があるか明確ではない。少し確かめたい。恐らく、所詮一人の人間の発想だと軽視しているのだと思う。もう一つは、似ているが、考えの対象範囲が限定されること。多分、そこだ。囲碁や将棋にのめり込まない理由もそこにある。これは、好き嫌いのバイアスだ。はっきりして、なんとなく終わった気持ちになってしまった。