負担感

特定の経験で負担と感じ、類似の経験で似たように負担と感じると、その類似の経験の学習効果は高まらないと考える。例えば、数学で苦手意識を持つと、数学の新たな課程の吸収は効率が悪い。相手が人間にもいえる。格闘技で、一度対戦して引きずると、次の対戦で萎縮するといわれている。健康やダイエット目的で、身体を動かす習慣がある人は、根性があるかもしれないが、多分あまり負担に感じていないと思う。逆に、習慣づけようとしたら、人間としてというより、虫のようにただひたすら動かすだけに徹すると負担感を引きずらなくて、軽くなりそうだ。そういえば、孔子だったか、好きな人にはかなわない、楽しむ人にはさらにかなわない、みたいなことを言っていた気がする。もし、言っていたら、すごい。まさか、脳のことを知っていたとは到底思えないが、周囲の人間の観察と経験からしか得られないとすると、すごい注意力だと感心する。突拍子もないことだが、昔の偉人は未来の経験があったとしか思えないすごいことを残している。勿論、そんなことはないので、それが出来る理由を考え続けている。今のところ、良い習慣の先鋭化を第一の理由としている。つまり、例えば、多くの人間が暮らしやすくなる為にどうすればいいかを徹底的に考え続けているようなことだ。そうしたことが一種楽しむようになっていく習慣の先鋭化だ。ちょっと、脱線した。一度戻ろう。何かの継続の努力の一つの方法が、良い習慣とした。では、何かを止める方法はどうだろう。考え方は二つ。一つは停止。もう一つは停止の継続。だから、後者の考え方は、継続と同様にすればいい。虫になりきって、止めている状態を継続する。では、停止として取り組む場合はどうだろう。褒美と罰、言い換えれば、飴と鞭だろう。褒美は、その日の終わりに今日も一日地球の平和を守った自分は偉いと自分を煽てる安上がりな方法から始めれば、褒美が過大にならずに済む。要は、安上がりな方法だ。罰は、難しい。健全な手段は、その健全な手段自体の実施の妨げになりうる。こんなのは、どうだろう。怒る時に、時間を空けることにして、次の怒りでその時間を一秒ずつ長くする。このように色々考えてみると、なんとなく、この種の苦労は何かにつながりそうだ。苦手の棚卸しも、いいかもしれない。無意識無自覚に避けているのは、発覚は難しい。見つかったら、程度で考えれば。しかし、ちょっと深刻なのは、いじめだ。いじめる側ではなく、いじめられる側だ。個別にはなんとも言えないが、苦手とする場面を経験の習慣の先鋭化とみなせば、まさしく今回の書き込みの通りだ。できれば、参考になって欲しい。