道徳教育

前回のいじめについては、「原理」でまとめられることがあると思っている。様々な考えと考えの衝突を無理やり一般化する例のアレだ。いじめ問題が大きく取り上げられるようになったからか、道徳教育が扱われている。議論の中身を知らなくて申し訳ないが、勝手に述べる。道徳教育で道徳が身につくことを目的とするなら、その目的が少し違うように思う。つまり、課程と結果とするなら、結果重視或いは結果だけのように感じるからだ。結果より課程が大事と言っている。道徳教育というよりも、思考すること、その結果各自の考えが異なることこそ大事とする教育の機会が重要だと思う。題材は、何でもよくて、プチ哲学のような身近で深く考えられる、例えば、「あいさつ」でもいい。「おはよう」をするのが当然で、疑問の余地なしとしても、理由は説明出来るだろうか。また、「右」や「左」を言葉で説明出来るだろうか。今は説明という言葉を使ったが、結論を見失うこともあっていいから、その見失う課程が説明出来れば、他人に自分の考えが伝える。「右」を、お箸を持つ手の方で納得する人も当然いていい。それでは左手で使う人には当てはまらない、と納得せず別の説明を考え、結局たどり着けないでいてもいい。そんな「プチ哲学」を道徳教育の代わりに、思考を身につけ他人に自分の考えが伝えられることを目的にした方が、世の中に出て役に立つと思う。この時、「劣る」を扱うか微妙だ。というよりも、色々な題材で問題が皆無ということもないだろう。どの程度が問題なのかの切り分けすら難しい。しかし、問題の共有を教育関係者にだけ委ねないことが重要だ。コップ半分の水が多いか少ないか個人差があるように、問題も感度が異なると思う。むしろ、これをきっかけに教育の委託の程度を考えたい。結果重視と感じるのは、例えば、泥棒はいけないと知識として身につくことが目的になってしまうのを想像するからだ。なぜ盗んではいけないのか、なぜ自分の物ではないのか、と「なぜ」が繰り返し出てくるはずだ。そんな執拗さは、限定的にして、他の授業の障害にならないことも当然配慮すべき。この、なぜの繰り返しが遊び感覚で取り組むと効果絶大だ。もしかしたら、大人と、この遊びをして、大人が立ち往生するかもしれない。そんな場面の想像は、恥ずかしいやら楽しいやら。実は、仕事上では、この種の失敗がある。当然、理由を考えているだろうと理由を尋ねると、理由を問われることに驚いている様子をよく見かける。ようやく、最近驚くことに気づいて、背景となる説明をしてから理由を聞くようになった。それまでは、当然を当然として疎通の遮断が度々だった。気づくのが遅く、恥ずかしい気持ちだ。一度戻ろう。道徳教育の必要性から議論しているなら、ここの話が伝わることを願いたい。大人の立場ではなく、同じ土俵に我々大人も子供達も立っていると考え、子供達の素敵な考えに圧倒されうる、と恥じる経験を恐れて、上から目線の議論に終始するなら、なんというか、アリバイ工作と感じてしまう。