会社経営

欧米はともかく、日本では有名な経営者は人の道みたいなことを重く受けとめている。恐らく、昔からの教えを当然として、合理的な説明の必要性を感じてないと思う。説明の必要性には、批判的だが、考えそれ自体は尊重したい。右という言葉の説明同様に、前提を置き過ぎたら簡単だ。未知の宇宙人を相手に説明するなら、説明は厳しい。それと同様に、昔からの教えを前提にするなら短い単語で済んでしまう。では、どのような説明になるか、という話の流れになりそうだが、実は違う。まだ、ここで書き込みながら、考えをまとめているところだが、率直に述べる。合理的な効率性を生物は選択してきて、人間も合理的な社会を選択してきて現代に至る。その合理的な原理が、人間には人の道に感じられる場合もあり、会社経営にも類似性を強く感じられるから、他人への説明に共有観念とされる言葉を使っている、と思う。このようなことを明解な言葉にしたいが、整理の途上だ。抽象的な言葉は、解釈の幅が広い。広いから、先の独自の言葉の「指導」による情報伝達後の補助が可能ならともかく、そうでなければ意図とは別な解釈の可能性がある。人の道というだけでは、困ったことになりかねない。それは、平和という言葉も同じだ。その目的で武器を放棄する人もいれば、逆に持つ人もいる。全く、逆の行動だ。それはともかく、資本主義という言葉がある。この言葉には納得していない。強いて言えば、合理的選択主義だ。現在より優れて合理的なら、選択するという考え、ということ。一度戻ろう。原材料の仕入れ先である取引先、材・サービスの納入先である顧客、材・サービスの担い手である従業員、利益処分の配当先である株主、と会社からみれば資源の配分の最適化の考え方には、投入資本や生産物その他の総称を仮に資源とするなら、その資源配分について社会全体の最適化に従うことが求められ、その求めに応じることが会社経営の基本的な考えで、象徴的に簡潔な言葉の人の道みたいなことになったと思う。社会全体の資源配分の最適値は、必ずしも経済合理性ではない。人間の負担感や環境その他への考えの総体を基準とした最適値で、基準自体が変動する。基準は、時間軸ではある一瞬ではあっても過去と未来を包含し、様々な関心の集約みたいなものだと考えている。従って、ある局面だけ切り取って、最適値を求めても、評価範囲も評価基準軸も多様で、様々な最適値があるとしか言えない。そして、もしかしたら、こちらの方が有力かもしれないが、確か宮本武蔵だったと思うが、一尺の幅、大体30センチの幅の地面を歩くのは容易いが、相当高い所でその幅を歩くのは容易ではない。それと同様に、様々な予定外の事態がある程度の頻度で起こる状況で、経営学の理論の実践を求められることを想定すれば、一尺の幅を高所で歩く心構えとして人の道を説明に使用したとも、解釈できる。こちらの方が有力とも思えるのは、妙に納得するところがあるからだ。抵抗があるのは、今の整理への貢献のつながりが、よく見えないからかもしれない。個別に話を聞かないとわからない。