歴史の大河

当時の人間にとっての関心事と歴史を大河的に眺める時の関心事は、同じとは言えない。現代という当時の現代人も同じだ。大河的とは、川の流れの渦中の当事者にとっては激流でも、川の流れを俯瞰して見ることだ。それぞれの当時の考えについて、明白で当然と思うことは、敢えて説明することは稀だから、実際の考えは推測になる。大胆に行こう。地域として関心の範囲は広がってきている。物やサービスの関連先の連鎖も広がっている。これらの広がりは、普遍的で考えの収斂を想像させる。一方で、人類の活動分野は多様で複雑になってきてる。大抵の人は、他の専門分野には詳しくない。この流れを否定することはできるだろうか。まず、認識として、そして、認識を踏まえて抵抗として、の意味で。否定できないなら、効率よく迎える考えは素直だろう。川は、低い方へ流れる。必ずしも、最終地点に真っ直ぐではない。その地点での低い方へ流れるから、大抵は蛇行している。世の中は、何らかの評価基準で効率性を選択している、と川の流れに似ていると思う。ふと、思い出した。ある日本人ノーベル賞受賞者が、モーツァルトの作品はモーツァルトでしか作れないが、(自然科学分野のことだと思うが)先に見つけた者でなくても他の誰かが見つける、みたいなことを言っていた。天才について、尋ねられたときの返答だ。なんとなく、逆コロンブスの卵みたいに感じた。それはともかく、こうした大河的な認識は、他の誰かでも感じると思う。では、複雑な社会において専門分野ではない一般人はどうすればいいだろうか。恐らく、専門分野と一般人とのある程度のお約束ができるだろう。新たな専門分野ができる度なのか、標準的なのか、恐らく幾つかの括りでそれぞれの標準的なお約束になると思う。専門分野としたが、例えば、消費者向けの製造業でもあてはまる。この時、それが人間の手で変えられるのか、人間には及ばない原理なのか、そういうところにたどり着いてしまう。まだまだ、整理が必要だ。別の話題にしばらく変えて、無意識に委託しておこう。