既得権益再び

肝心なことを忘れてしまった。先日、ある番組で、中国の地方政府と農民との土地の紛糾を紹介していた。構図は似ている。農民が既得権益層で、地方政府が新しい制度への移行即ち開発を求めている。この番組では、両者の間で争いを止めて協議に円滑に進むようなNPOの存在が印象的だった。これを見るまでは、既得権益層も、認識の構図を広げて業界を国の一員として認識すれば、既得権益を守ることに固執しなくなると考えていた。ある分野の一員の意識では、被害者意識になりやすい。これはこれで間違いとはいえない。しかし、しっくりこない。いくら憲法で一部の奉仕者を禁じても、意識改革は難しい。番組を見て考えたのは、落としどころに進むように努力することだ。農民にとっては行き先が重要で、その対策に前向きになってくれれば、無用な争いは避けられる。連想したのは、山本五十六の言葉で、具体的に行動を示さないと人間は行動しない、みたいな言がある。これと似ている。争う両者は、自分の言い分を主張することに夢中で落としどころのような歩み寄りは難しい。もし、歩み寄りの具体的方法がわかれば、効率よく協議できる。こんな仲介を考えたNPOの人はすごい。ちらっと紹介してたのは、天安門事件のことで、推測するのは、そこから前向きに、いわば健全に争いを避けることに意義を見いだしたのではないか、ということだ。恐らく、一般化できる。ちょっと大胆に例を出すと、中国の民主化を、抽象的に批判するのではなく、具体的な実行手段を、しかも、漸進的に安定感を持った方法の提案を行えばいい。ちょっと横道にそれた。一度戻ろう。既得権益を守る側からすれば、安定を破壊されることが懸念ならば、激変緩和策が常套手段だろう。売り上げ保障的な漸減する補助金とか、市場の割り当て制度とか、色々あると思う。それら激変緩和策は、漸減し一定期間後の廃止が望ましいとか。この歩み寄りの姿勢は重要だ。その姿勢がなければ、暴力という行動がないだけで、相手の考えを無視して自分の考えを主張する一方という意味で暴力と変わらない。暴力的非暴力みたいなものだ。当事者としては、なかなか難しい。不可能ではないというだけだ。或いは、ガンジー的に無抵抗の姿勢もあるかもしれない。やはり、知恵の積み上げだろう。このあたりが、実は生産性に寄与するのではないだろうか。