ちょっと高い目標

よく、ちょっと高い目標を数多く達成することが推薦されている。そう思う。高過ぎても低過ぎても効果が上がらないから、高さの設定は重要だ。自分で設定するのが基本だろうが、新人の場合は違う。低過ぎて勘違いを起こして、使えない社員になったり、高過ぎて退職してしまったり、不幸な例も聞く。他人の設定では、事後の支援が必要そうだ。自分で設定するなら、設定を制御できる。例えば、色々なことに関心を持つことでいえば、普段と同じ状況で退屈なら、一日何か一つお題を作る、という目標にする。その日お題が作れなかったら、その状況では保留にして、次の日は別のマンネリ気味の状況でお題を作る。こうして、複数の状況のお題になるが、毎日遭遇するうちに、ふと興味を持つことがある。それで興味の持ち方のコツがつかめるかもしれない。立派なことを求めると高過ぎる以前になるから注意する。毎日ならば、どこかに変化があるかもしれないし、普段は気にしてなかったことが気になることもある。その程度でいいと思う。神経を張り詰めてまで頑張りたくないと思う人は、多分その時点で目標を高くしてる。この目標の高さは、関心の程度ではなく関心の持てる程度と言ってもいい。関心がなくても、材料とか生産者や生産地だけでもいいし、それの推測する手がかりに着目してもいい。そんな感じで、最初は敷居を低くするのが肝心。ここで思うのは、単なる知識と体系的な知識との違い。体系的な知識を広く持っている場合とそうでない場合では、一つの着目で次々と連想するのと単発の着目で終わってしまうのと違ってくる。さらに考えるのは、研究者や芸術家とか。広く体系的な知識を持っていると効率的というより創造的な効果があると推測する。物理学の分野で経済学が役に立つとは思えない、と考えるなら多分体系的とする意味を全く無視していると思われる。新しい着眼点の発想は、他の分野に類似を求めることができたりする。つまり、大学教育の教養過程は重要なのだ。着眼点という意味で、例えば、目の前にコップがあるとしよう。見知らぬ人にこのコップで何を語れるだろう。何も語ることができない人と、色々な話題を語れる人の違いはどこにあるだろう。それこそが着眼点を大事にする理由だ。銀座の店に行ったことはないが、豊富な話題に魅力を感じるからと言われている。まさに、同じことではないか。ん?脱線が過ぎた。一度戻ろう。何か明確に努力することが決まっていても、広く関心を持つことは十分にその努力への見返りになると考えている。もう一つ余計なことをいえば、身近にいる話題が豊富な人を観察すると参考になる。