目の前のコップ

どんな話題が出るか、ちょっと考えた。材料、色、色の材質、容量、中身の飲み物、固形物の食品、飲み方、印象的な場面、室外での使用、と無意味に続くのでやめる。実際に誰かに話しかけるなら、相手の興味が向く話題になっていくと思うが、思いつくまま話す方には多分関連の多少の強化程度になるだろう。それを聞く方が刺激を受けて、「概念」の系の深化と系の新たな関連付けが期待できる。一呼吸の中断で話し手と聞き手の交換は、刺激的だ。多分意識できる程実感はないが、記憶としては十分に刺激的だ。ここで気づくのが、ちょっとした現象を見逃すか、異変と捉えるか、の違い。鑑とする正常な体系を認識していれば、そのちょっとした現象は異変だが、体系の認識が不十分であれば単なる現象でしかない。ある自動車メーカーの創業者は、工場に向かう途中で異変に気づいたらしい。そんな音が出るはずがない、と認識しているからだ。これと似ているのが、国内大手航空会社を立て直した有名な経営者は、報告の数字を見て問題点を見つけ出したらしい。これも、鑑を備えているからだと納得する。周辺に、ちょっとしたことで異変に気づく人がいたら、幸運だ。どのような体系で認識しているか話を聞くのは、非常に有意義だろう。つまり、体系的な記憶と断片的な記憶では、有効利用の観点で大きな違いになる。ここで思うのは、受験勉強としての知識の獲得目的だ。試験の成績が上がることが知識だとする認識から、一旦離れることが必要だと思う。恐らく、何か具体的な経験が必要だろう。バラバラの面的な幾つかの現象から、何か本質的なことに辿り着く経験はその例だ。さそこで辿り着かなかった者が、他人の辿り着く理由を知識や経験と捉えるなら努力は報われない。受け取った情報は同じなのに、と捉える認識が必要だが、不用意に他人が迫るのは注意すべきだ。他人と比較して自分が劣ると認識するのは、才能がないと誤認する恐れがある。才能の有無ではなく、体系化の習慣の有無の程度でしかない。ただ、その習慣が理解できるから効率よく習慣になりやすいだけで、理解というより実感が持てないから習慣になりにくいというに過ぎない。一度戻ろう。目の前のコップで誰かが話し始めたら、じっくり聞いて結論の根拠めいたことを聞くと体系的かどうかがわかると考えている。試すやり方は好まれないから、どうしてそう考えるかを聞く程度に留めるような配慮は必要だろう。例えば、コップの用途は飲食目的とは限らないと考える者にとって、飲んだら洗うのが当然とされて、どうして洗うか質問したら、恐らく不都合な事態が待っている。だったら、お遊びとしてのプチ哲学みたいなことが望ましいと考える。なんとなく、一定の制約下で楽しむゲームみたいなお決まりが作れそうな気がする。相手に振って、反応して、その反応に反応する、というようなやりとりの制約だ。また、無意識の思考に委託しよう。