他人の評価

他人を評価するとは、どのようなことだろうか。それに答える以前に、個別に何がしかの判断をしている事実がある。つまり、評価基準の前に評価判断が実際には存在する。これをどのように考えることが望ましいのだろうか。何らかの基準の設定を知らなければ、評価する人間に高い評価を期待する人間にとって、努力の手段がわからない状態となる。恐らく、比較することで優劣が明確になる。仮に、人間の評価方法が2種類しかないとして、2人が互いに評価する場合、どちらの評価に応じて努力すべきかを考えてみよう。相手の評価方法が予めわかっている場合と、わからない場合の比較では、当然わかっている場合の方が有利だ。2人同士の比較でも、同様だ。では、相手に情報を与える場合と与えない場合はどうだろうか。これだけでは、なんとも言えない。相手を有利にすることだけを取り上げるなら、不利になると考えられるが、相手の評価方法を引き出す契機の可能性をどこまで考慮するか、になるだろう。なんとなく、ゲーム理論的展開になってしまった。もっと、率直に考える。人間の評価方法は様々で、その中でも得意とする評価方法で他人を評価しがちだ。だが、その評価方法と評価が適切と考えられる根拠はあるだろうか。別な評価方法なら、高い評価になる人間を見逃している可能性を想像する。機会損失と言える。その一点だけで、振り返る契機と考えられる。例えば、将来のノーベル賞受賞者だとしたら、謙虚な姿勢は大事だと思ってしまう。それでも、評価しがちな実態も認めて考えないと、前には進まない。では、前とはなんだろう。そこがないと意味がないと思う。その、「前」を考える。