砂山のパラドックス

砂山の砂から、一粒取り除いても砂山で、一粒ずつ取り除いていって、最後の一粒でも砂山といえるか、というパラドックスを考えてみよう。面白がって似ている例を挙げてみよう。髪の毛を一本ずつ抜いてはげ頭。集合場所まで百メートルから、1センチずつ。老若の一日差。金持ちと貧乏の一円差。安心の放射線量、化学成分。最後の方は、面白がってなら不謹慎。このパラドックスについては、客観的な数値の提示があるだけに厄介だ。ただ、ここでは評価基準が多様で区切りを一概に決定できないとして考えているから、何かを決めることは考えていない。類似例は、客観的数値抜きでもあるだろう。実に、多様性を何度も重要としてきているから、今さら多様性を訴えるつもりはない。ただ、考えたいのは、ある程度基準の共有が形成される状況で、幾つか考えられる。危険性や影響の大きさから人為的に予め決めておく。成功の先行例の慣例化。権威からの従属。市場的に収束。散逸的決定。等々。そして、それらへの寛容と拒絶。法は社会的要請もあるが、要請もなく組織の都合上制定されることもある。慣例化は、多いにありそうだ。例は、表裏含めた交際上の支出。権威で決まる例は、上司とかの根拠なし発言が維持されてしまうこと。市場的というのは、判断のための情報を含めて開放的で、かつ、自発的に決められて、かつ、制約なしの受容という参加者に情報と決定に不自由がない状況だろう。散逸的とは、例えば集合時間の遵守程度。5分前を当然としている人や平気で1時間遅れの大物とか。男女の交際では、力関係とか色々ありそうだ。公正を基準に考えると、市場的決定が優位になると思う。決定の共有が、時間的地域的な範囲の違いもあるかもしれない。恐らく、互いに相違点を認識して優位残存が働くと考える。つまり、このことこそ、原理と考える理由だ。一度戻ろう。砂山の砂の粒の大きさには、触れなかった。しかし、石や岩とは、どのように考えるだろう。また、砂山の大きさをでかくして、地球規模なら砂山と言えるだろうか。考えるとしたときに、考える幅をどの程度に設定するか、これも考える方法をある程度開拓することになると考える。多分、実際と理論の違いを型として保有しているかどうか、といったある程度考える方法には類似性があると思う。他人のも参考にはなるけど、基本的には自分の思考方法の構築になると考える。