寛容と世の中

公共という言葉は、publicからきてると思うが、世の中という言葉の方が内容を的確に表すと考える。世の中において、不適切な行動に目くじらをたてる人が多い気がする。この言も含まれるだろう。確かに、環境に優しくなかったり、社会貢献とは逆の行動だったりするかもしれない。ただ、忙しくて、知識が不足しているだけなら、知識を得て適切な行動が期待できる。例えば、現在うなぎがレッドリスト入り寸前の危機らしいが、国際的に日本は非難される立場にいるようだ。つまり、脳天気にうなぎを食べられる状況ではないと言えるが、それを理由に食べる人やそれで食べてる人を非難するのは、先の目くじらに該当すると思う。一人くらいの努力で抑止できないから、不特定多数の人に主張する行為とは異なるように感じる。この枠組みで考えてしまうのは、投入する労力と得られる効果、効率的なことになるが、知識の普及と意識の向上が成果となると、ちょっと違った考え方をする。知識がなくても、結果的に抑止されることが望ましいと考える。つまり、様々に必要とされる知識があふれたら、解決策としては、知識と意識では限界と思うからだ。例えば、投資家として流通企業に努力を期待する解決法は、多方面の関係者の利益という観点では、適切と考える。解決法の設計として、なんというか、好奇心で考えるということに感性を感じる。制度設計という見方をすると、途端に政治領域化してしまうが、もっと楽しんで取り組む方法もあると思う。なんとなく、頭の中にあるものが形になってきた感じがする。