謙虚の存在

謙虚な気持ちにさせてしまう存在を考えてみる。謙虚になる理由は問わないが、状況の変化で理由がなくなる対象は多分望ましくない。例えば、立場が変われば、といった状況が変わることが当然だとすると、謙虚な気持ちにさせる理由が存在というより立場になるだろう。例えば、神や自然、真理、といった類を想定する。謙虚な気持ちの状態と、それ以外の状態の違いは何だろう。例えば、自分の主張への再確認の契機になるかならないかの違い、みたいなことが思い浮かぶ。重大な決断に至る過程では、浮ついた気持ちを払拭することがあると思う。そのような状況では、謙虚な気持ちは必要かもしれない。他にも謙虚な気持ちを持つことで良い結果をもたらすこともあるだろう。つまり、謙虚な気持ちになることには、なんらかの合理性があると考える。もし、合理性があるならば、謙虚な気持ちになる存在を持つことは意味があるだろう。とかく、世の中を斜に構える機会が多くなり、多くの判断で軽い浮ついた思考に基づいてしまいがちになりやすい。一度は試しに、謙虚な気持ちで考える経験を持ってもいいだろう。恐らく、様々な経験を積んだ人間は、決断にも豊富な経験があり、合理的に対処方法を獲得していると想像する。その中の一つに謙虚な気持ちになることが含まれている可能性は高い。食事一つでも、コンビニの弁当か牛丼かを迷う程度と、重要顧客や重要な行事での会食の準備とでは、相当かける労力は違うと思う。経験の違いとは、このような違いと想像できる。つまり、経験を積むとは、経験を活かせるように染み込ませる情報に貪欲になることだろう。決して、行動した事実だけではない。そして、貪欲になる理由には様々あるだろうが、目の前の行動以上の大きな想定が向上心によるものだとすれば、謙虚な気持ちもそのきっかけになるかもしれない。例えば、劣等感を感じているとして、謙虚な気持ちとはどのような関係になるだろう。この想定では、時間的に劣等感が先にあり、何かの機会で謙虚な気持ちになると考える。劣等感の方が強いなら、謙虚な気持ちになる強さが不足していると考える。逆に弱いなら、謙虚な気持ちによって劣等感すら吹き飛んでしまうと考えるのは、期待し過ぎだろうか。恐らく、謙虚な気持ちになる強さの問題だと思う。強力な気持ちになると、多くの雑念が吹き飛んでしまうと思えるのは、宗教の強さを認めるからだ。別に宗教を推薦している訳ではない。歴史や現実世界の見聞から容易に結論できる。そのくらい強い存在を見つけることは、恐らく価値がある。