基本志向その2

心理学や医学の最近の知識はある程度必要かもしれない。自分と違う人間を排斥するようなことにならないためと考えることはいけないことだろうか。同じ人間だと感じることが基本的なことだと思うことは、いけないことだろうか。この考えを強制しようとする意図はない。多様性を認める感性は、多様性そのものを同類として認識するからと考えている。医学や心理学の知識は、その助けになると思う。知らないことだけでは、罪悪感を感じることには無理がある。無知と無知による排斥の意識が伴うと、知識を持つ人間からは寛容性が乏しいと感じるだろう。その意識の差は、難しい。寛容でないことを責めることも無理がありそうだ。地味に普及する努力が必要とされていると思う。その延長上に、いじめ等の解消があると思う。他の人間とそれ程の違いは、大筋ではないという前提があると思う。違うのは、努力の行程だろう。つまり、他人の努力には敬意を持っても、劣等感を持つ必要はない。それが、基本的な人間としての位置付けで、大げさに言えば人権になるだろうか。社会的な要請で、敬う存在は理由が社会的要請として明白だ。それ以外は、根拠なく作られていると考える。仮に根拠があるとしても、多くの場合は倫理観に頼り平等とされる。倫理観を確かな存在と考えるか、より確実な根拠を求めようとするか、の違いは本質的には基本志向という括りでは同じように思う。社会の一員としての基本を考えるとするならば、多数の人間と同じ位置付けと考えるとするのが、ここでいう基本志向である。