明治維新批判

あんなに多くの人に高く評価されているのに、批判するとは一体どんな了見だろうと思われるかもしれない。内容を批判したいのではなく、多くの参画意識がなかった点を批判する。どういうことかと言えば、ほとんどの世界的な革命は民衆の手によって権力を覆したが、維新は武士、しかも薩長とかの一部の手によって成されている。民衆の意識としては、偉い人達の行為に過ぎない。親達前世代の活躍ぶりを聞いて、我がことのように維新を意識するわけではない。そのような他人事のような捉え方では、政治に対する参画意識も所詮他人事になるだろう。自分たちの手で掴み取ったものに対する誇りのような意識が、政権の外に置かれた者に持てるとは考えにくい。例えば、みんなが使う階段を、みんなで作るのと誰かが作って利用料を取るのとを比べれば、一目瞭然だろう。みんなで作っても、維持費をみんなで決めたなら、利用料に対する考えも違ってくる。利用料を税金とすれば、この比喩は理解してくれると思う。維新の話に戻れば、象徴的なのが日露戦争だ。その戦後の捉え方に表れていると思う。負ける可能性が高いが故に、勝った後のことまで冷静に考えられなかったとみなす認識も間違いとは言えない。しかし、戦勝に見合うことを求めてしまったことこそ、考えなくてはならないと思う。富士山に簡単に登れてしまったら、エベレストも同じように簡単に登れてしまうと勘違いをおこすようなものだ。この比喩は適切ではない。だが、勝ち取ることの困難さは、実感を必要とすると言いたい。