国会の拘束

今朝の日経新聞の経済教室で、国会のことが取りあげられていた。色々頷くことばかりだったが、なかでも政府側、つまり閣僚の拘束については、国際的な行動に制約となるから、緩和すべきと考える。恐らく、法案提出が政府側からのものばかりだから、提出責任みたいに考えているのだろう。新聞にも触れているが、戦前の軍部の暴走が理由ではあろう。昨年だったか、小委員会の委員長が国外の用事で予定より何分か遅刻したら、解任された。仕事として、力を入れるところを間違えている気がする。他人の揚げ足取りが仕事になっていたら、国民のための努力はどこかに放置されているとしか思えない。むしろ、議員としての能力不足を隠す意図を感じてしまう。ねじれ解消と喜んでいる節があるが、ねじれは健全な証拠で与野党の歩み寄りと健全なせめぎ合いこそ求められていると思う。なんでも反対する野党ではなく、通すべきものと修正すべきものと全うに議論しているなら、国会の健全な運営だ。しかし、与党との対決姿勢を強調するばかりでは、議論は健全とは言えないだろう。与党側も、野党に歩み寄ることが必要だろう。政権が交代することを前提とするなら、政権交代でも変わらない政策と政権交代で変わる政策を明確にするなら、国民にもわかりやすい。しかし、全く違う。与党内ですら、意見の食い違いが洩れてくる。外交や社会保障については、政権交代でころころ変える性質とはならないだろうから、政権を担う責任を持って協力して欲しい。両院で異なる時の形骸化も問題だろう。なんか、色々と無責任な感じがしてしょうがない。中身のある議論ができる議員もいるが、時々見る国会中継では、中身があるとは思えない。少し、冷静になろう。社会保障については、なんとなく進展するような話を聞いたので、少しは安堵しているが、日銀の量的緩和策の出口については、今からでも確認すべきだろう。少なくても、終了の条件の目安くらいは示すべきだろう。まだ早いと言うだろうが、良い出口の保証はないのだから、悪い出口を考慮しないとはすべきではないと思う。一度戻ろう。国会での政府側の拘束については、検討の余地は大いにある。外国から見た日本を、どのように考えるか、だろう。外交という観点というより、国際的な協調が大事だ。例えば、漁業についても、国際的には日本は悪者扱いされていることもあるのだから、誤解を解く努力や好感をもたれる努力はすべきと思う。そんな色々に時代の変化を感じる。