金融機能
やはり、大きく分けて債務と自己資本になると思う。性質をわざと中間にしたような、劣後ローンや優先株のようなものもあるが、基本は二種類で、債権債務がいつの間にか株式に変わる救済のような変更もまかり通っている。自己資本の性質は、企業の主のような役割で損失も利益ももろに被る。債権債務は、その時点の約束の履行で状況に応じて変える性質ではない。つまり、資金需要の位置付けを明確にしなければ、本来財務の戦略はたてられない。だから、株式転換社債の発行は財務戦略がないと公言しているようなものだ。行き当たりばったりの企業の計画を信じる方も信じる方だろう。転換社債の説明は、財務戦略として聞く性格のもので、事業だけの説明ではない。勿論、事業計画を含む訳だが、利益の確実性が高いならば、社債や借入になるだろう。確実性が低くて、しかし見返りが大きいなら、割り当て増資が真っ当だろう。社債なのか株式なのか、それに株主への説明がどのようになっているのか、そのような行儀の良さが見あたらなければ、丼勘定とみなされても仕方がない。金融の需要側として、次第に行儀が良くなってきてるのは、そのような考え方が浸透してきているからかもしれない。供給側が問題だ。間接や仲介は両方の側面がある。供給側の最大の問題は、適切に需要側を評価する能力がないことだ。それは、起業を含む。事業を理解することが本来的な能力のはずなのに、怠けている。恐らく、当事者は怠けている認識はない。株式なら、上がったか下がったかで評価されている。融資なら、他の金融機関も融資している企業に新たに融資したら、評価される。そんなことがまかり通っているから、いつまで経っても機能しない金融機関なのだ。例えば、高炉と電炉を考えたときに、他国からの輸入に依存する高炉と、鉄材の再利用の電炉で、なぜ圧倒的に高炉の市場占有率が高いのだろうか。高炉の努力もあるだろうし、仕入れ市場の変動に左右される構造的な問題もあるだろう。しかし、金融がしっかり機能していれば、米国程度とまでは言わないが、市場占有率の圧倒的な差は縮小すると思う。詳細に根拠を把握している訳ではないから、適切な判断とは言えないかもしれない。しかし、重厚長大企業の代表のような存在と桁違いの規模の会社への融資や株式に、妥当な評価がされているとも思えない。目先の業績は、数字として表面化されている。しかし、事業そのものはそれなりに正攻法で情報収集しなければ、適切な評価は難しい。そんな正攻法が怠慢で実行されていないと考える。有名であるとか正当とは言い切れない評価が、ここでも顔を出している。こうした、供給側には、一般の消費者が含まれる。当然ながら、預金が多くて、保有株式が少ないことだけでも、明確だろう。ん?この流れでは、電炉の株式を推薦しているような感じになってしまう。そこは、切り離す。こうした、金融市場を別の見方をすると、国際的な動きを抜きに考える危険を感じる。調達や運用が国外ということもあるし、逆に国外から国内への流れもある。次第に太くなってきていると思う。それは、他国の市場の変動が別の他国へ影響していることでもわかる。期待もあるし、実際の資金の流れもある。当局の金融制御能力の限界を国際的に共有するか、協調の場を設けるべきだろう。昔ほど国内で閉鎖されているなら、効果もあると思うが、国際的に開放されていると効果も薄まる。もっとも、市場が大きすぎるのかもしれない。金融は、いつまでも大動脈で勝負せず、毛細血管で勝負する必要があるのに、理解が進んでいないと思う。