終戦記念日

明日は、終戦記念日。名前を終戦にしたところに、いろんな意味があるような気がする。なぜ、敗戦ではないのか。それだけでも、考えさせられる。

区切りの象徴の意味が大きい。玉音放送という名前も、歴史になっている。

反省をするとして、どのような反省があるだろう。唯一の反省なら、考えることもなさそうだ。しかし、色々ありそう。色々あり過ぎて、反省を逆に敬遠する見方もある。極端から、極端が多いから、その見方もわからなくもない。

反省するなら、なぜ始めたか、なぜ終わらせられなかったか、が基本だろう。なぜ負けたか、を反省の対象にするのは疑問だ。

ノモンハンに凝縮されていると思うので、陸軍についてはノモンハン以外は、腹が立つだけ損だから敬遠している。そういう意味では、決めつけているようだ。ただ、陸軍の擁護として、見識を持ったと思える話に出会ってない。単に、出会ってないだけか、擁護できるような存在ではなかったのか、それは、わからない。

反省を、ただ戦争を反省するだけで、踏み込まないのは、まだ、反省しないよりはましかもしれないが、自分の考えで、なぜ戦争はいけないのか、その説明ができなければ、お題目を唱えているのと等しいように思う。

どの戦争でも、始める人間は安全圏にいる。終わらせることは容易ではないことを始める前に心底理解しておく必要がある。

戦争を経験していない人が大多数になっている現在、一年に一度くらい戦争について、まじめに考える機会をつくっても良いだろう。だから、他国の戦争だったり、第二次世界大戦より前の戦争だったり、これからのことだったりしても構わない。

あれだけ、執拗に迫るなら、いつ実弾が使われるかわからない。そんな切迫感を煽る意図はないが、現場は大変だと思う。そのことだけでも、安全圏にいる我々は、一年に一度くらいの関心でも持ちたい。

確か、つい最近、昨年にも不発弾処理のニュースがあったと記憶している。処理現場付近なら、怖い思いが強いだろうが、歴史の彼方ではなく、つながっていると実感する。

現代で考えるなら、諸外国と協調することが必須で、一方その流れに流さない努力も忘れてはならない。捕鯨とか正当性をしっかり持ちたい。

近未来の戦争を考えるなら、ネットとロボットは必須だろう。夜間の監視、特に海岸付近の赤外線カメラとか、検討事項だと思う。

食糧事情が悪かったことも、現代では実感できない。そんなことも一年に一度くらい考えたい。

反省するばかりではなく、誇りに思うこともある。ユダヤ人への協力をしたことは誇りに思える。他にもあるだろう。

そんな、あれこれを考えてみたい。