知識と知恵

どちらが大事という話ではない。だが、混同する例をよく見かける。というよりも、知恵の軽視とも違う、他人の発言を知恵の結果とみなすのではなく、他人の知識と考えている風に感じられる。

もちろん、知識がなくては発言出来ないこともあるが、知識が同じ程度で、判断が異なる、というよりも、片方は深追いせず簡単に考えることをあきらめて、もう片方が知恵を絞って考えているならば、考えないことのもったいなさを強く意識する。

理屈の説明は、不要だから、解答だけ欲しいという発言を目にすると、色々事情はあるだろうが、どの程度自分で考えたのかを聞きたいと思う。

今の時期は、夏休みの宿題があるから、その宿題の消化が目的になっていたりする。そんなことを推測するから、余計な考えが浮かぶのかもしれない。

別な見方をすると、貧弱な知恵と思っているから、他人任せになりがちなのかもしれない。結果だけみたら、他人の知恵が勝ると考え、自分の知恵を働かせないことになる。

仮に、と考えるにしても、思考放棄の習慣は思考放棄になりがちだ。少しでも、考える習慣が大事だろう。

そんな考えがあるからだろうか、経営学大学院には疑念がある。実際、優秀な成績の卒業生が必ずしも実際の経営で成功しているとは限らないという情報もある。まあ、書評からの情報ではある。

知恵という言葉は、思考という無機質な語感ではなく、なにか人間臭さを感じる。他人の語感はわからない。あ、なんとなく、わかった。必ずしも、思考の働きが優秀という意味だけでなく、相手の許容範囲でのずるさを含んでいるから、のような気がする。それなら、人間臭さも理解できる。

その含まれることも大事かもしれないが、そればかりにならないようにしたいものだ。