現場主義

現場を大事にすることを、ここでは現場主義と捉える。確かに、良い点は認めたい。しかし、至上主義となると考えたい。

生産性を上げる努力そのものを否定することはできないが、部分最適化の懸念と集権的生産性への怠慢について批判的だ。部分最適化は、現場でだけ生産性が上がるだけではなく、横展開のような積層化の働きが抜けることを指す。集権的生産性は、主に経営層の怠慢を指す。

生産性を上げる要因を現場から拾い集めることは、それ自体否定できない。しかし、手放しで推奨されることでもない。拾い集める対象が現場に限定するとしら、それは推奨できない。さ狭い意味の現場ではなく、広い意味の現場としてなら、理解できる。そのような広い範囲を対象にして、拾い集める努力をするならば、次第に範囲も広がると期待されがちだが、収集の効率の判断から広がる期待は難しいと思う。つまり、生産性向上にも、得意不得意があり、得意分野に限定する働きがあると考えるからだ。

また、生産性向上という実績がものをいうために、努力に満足して視野を拡張する動機につながりにくい。

横展開については、どうだろうか。例えば、ある製品での生産性向上策が別の分野の生産性向上に寄与することを指すが、組織分断という理由以上に、生産性向上策の共通点に連想が働かないことが大きな理由だと思う。積層化の本質は、ものごとをより本質的に深層部分で理解して、他の分野での適用とすることだ。だから、経験豊富な人間こそ、他の領域で仕事をする意味がある。

集権的生産性については、実は情報産業分野が参考になる。中核側の発達と端末側の発達が、交互のようになされている、まるで蛇腹のような進歩のことだ。つまり、現場の生産性向上と集権的生産性向上は、交互になされることで、一層の進歩が期待できる。先の積層化も含まれるかもしれない。今ここで規定することはできない。しかし、牽制するかのような緊張感が生産性をより向上させると考える。

生産性を向上することは、経済成長に必要だ。市場の競争においても、必要とされる。だから、生産性向上自体を否定することはできない。しかし、そのまま直ちに生産性向上が全て現場にあるとするのは、違うということが今回の話だ。

現場として視野を広げることと、集権的な生産性向上の努力に、ここでは求めた。他にも可能性はあると思う。