地震、雷、火事、親爺、とは、よく言われる。雷は恐ろしい。

音が大きいし、稲光も脅威だ。その昔、菅原公が天神様と祀られた経緯も理解できる。

実際の被害を回避する方法は知られている。木の近くは危ないということも含まれている。

木が危ないならば、鳥はどうしているのだろう。飛んでも危ないと思う。まさか、焼き鳥になるのだろうか。

雷の理屈がわからない昔ならば、天とか神の怒りと捉えていたことも理解できる。地震や火山噴火のように、自然災害を超自然の存在の怒りと認識する背景には、自然は人間の制御対象ではなく、原理未解明で人間からみれば、生活させてもらえる環境を提供してくれる暗黙の存在と感じていたのではないか、と想像する。

そうした状況で、何を考えるだろう。怒りの理由を考えて、思い当たるならば反省するだろう。なにしろ人間は、何か後ろめたい気持ちをもつらしい、ともっともな理由を考えたいが、思い当たる節がないならば、どのように考えるだろう。行為ではなく、人格への怒りと考えるだろうか。その地では、怒りの対象とされたが、他の地では対象とされないと希望を持ったかもしれない。想像は果てしない。少なくとも、現代に比べれば、雷は生活を変えるきっかけになった可能性が高いと思う。

さて、現代ではどうだろうか。制御はまだ出来ない。しかし、完全ではないが、回避は可能だ。そうすると、課題は、制御と回避の可能性向上だろうか。利用も課題に含めてもいい。エネルギーは、電圧は高くても電力量としては期待しにくい。地面への放電が利用できそうな気がする。浅い地下の細菌を中心にした生物への影響と、植物への二次影響だ。

雷の発生が直ちに積乱雲の発生とは言えないが、積乱雲の発生を回避する方法を考えることも制御としての課題かもしれない。広域の都市課題になるのではないだろうか。各家庭、建物の温度調節だけでなく、気温を低下させる効率的な都市構造は、色々な効果が期待できそうだ。

現代においても、反省のきっかけにしてもいいかもしれない。きっかけは、何でも構わないのだから、雪が降った時にしてもいいだろう。問題は、何を反省するかだろう。