高校野球

高校野球を非難する蛮勇はないが、幾つかの批判はある。

ただ、懸命に努力する高校生を、「どうだ。青春してるだろう。」と言わんばかりの、手放しの賛辞には同意出来ない程度では、ある。

懸命に努力すること自体は否定出来ない。しかし、野球に限った話ではない。しかも、スポーツに限定する必要もない。ところが、高校野球は全校での応援が実態だ。その高校を代表するスポーツが野球で、ほとんどの高校があてはまるという不自然なことは、信じられない。恣意的になされた慣習としか思えない。

野球だけ特別にされる理由はない。この点が一つ批判するところではある。では、サッカーならば、許されるか、という話でもない。ただし、競技の充実という観点では、競技の選別はあるかもしれない。

何か特別に全校で応援する必要があるのだろうか。それは、ブラスバンド部と応援団の活躍の場、かもしれない。もしかしたら、全校生徒が一同に気持ちを一つにする機会と考えているのかもしれない。

つまり、選択が野球以外の可能性という話と、全校生徒で一同で応援すること、の二点が批判の対象だ。

野球の特別視は、現在はわからないが、一昔前でのスポーツ選手の高額納税者でわかる通り、野球が突出している。これは、理由を一つに断じることは出来ないが、プロ野球人気に求められるだけではなく、高校野球の存在も理由だと思う。

突出した状況を不自然と考えるか、違和感なく受け入れるか、の感覚の違いだけかもしれない。米国のように、アメリカンフットボールが人気あるとしても、突出している訳ではないことは参考になるだろうか。或いは、世界的には、サッカーが突出していると考えるだろうか。この点は、長期的には、不自然さはなくなる、つまり、野球人気の低下を予想している。

しかし、小学生からの野球と考えると、かなり違和感を持っている。この点は、別の機会で触れたい。

では、一同の応援はどうだろう。応援団とブラスバンド部を典型として、その活躍の場が野球場に限定されなければ、いいのではないだろうか。壮行会で十分としては、臨場感やらなんやらで価値は相当減じるのだろうか。活躍の場としてだけみれば、十分とみるのが無理とは思えない。野球の方からみれば、歴史を踏みにじる行為になるかもしれない。

一同の応援の意味そのものは、どうだろう。やはり、壮行会で十分とみる。例えば、オリンピックで金メダルを獲得する選手がいるとして、全校で応援して送り出すと思う。それが、壮行会だろう。やはり、十分だろう。金メダル獲得して戻ったら、盛大な歓迎になるから、そこでも十分意味はあるだろう。

ただ、金メダルを獲得する選手がどの高校にもいる訳ではないところが、説得力に欠ける。でも、壮行会の時点では、気持ちは一つになる。そこには、説得力がありそうだ。

もう一つ、批判するところがある。しかし、この批判は批判されそうだ。それは、その県の代表校の活躍が、その県の応援になることだ。国体で十分ではないだろうか。バスで何台も甲子園に乗り込む話は、よく聞く。親御さんも大変だ、という気持ちしか持てないからかもしれない。どの程度の範囲の関係者なのか、お疲れ様です。

活躍が必ずしも、将来の活躍を保証している訳ではないことを事実として受け入れることが大事だろう。甲子園で活躍してなくても、将来の活躍の可能性は十分にある。その逆もある。それは、野球に限らない。