閃き

さっき、閃いた!と思ったら、邪魔されて、失念してしまった。思いだそうとしたら、閃きは勘違いだったみたい。その時に、しっかり確認しないとまずいようだ。

しかし、閃きとは、なんだろうか。やはり、概念の拡張の壁の突破という表現になると思う。それまでの拡張の努力という助走のような過程が、暗黙の前提になるだろう。仮に、その過程がないとするならば、明確に認識してないだけで実際にはあると思う。なぜなら、既存の概念の拡張だから、既存の概念という時点で前提が成立するからだ。例えば、遊びで楽しんだだけであっても、それが概念の確立過程に相当するならば、突破前の助走の過程と言える。

人は、よく出来る出来ないの差は、才能の有無と考えて、才能がないから出来ないみたいに考えがちだが、その考えには与しない。努力という言葉が適切かはわからないが、概念の拡張は、拡張する行為が必要とされる。その行為が、遊びかもしれないし、ひたむきな努力かもしれない。

今回の幻の閃きは、いつかは達成出来るかもしれない。しかし、そのためには拡張する行為が必要だ。頑張ろうとは思っているが、必ずしも辿り着けるとは限らない。でも、辿り着こうとする努力はしたい。

言葉は、表現する内容は限られるから、伝えたいことと、伝わったことは、必ずしも一致しない。なぜ、この言葉でそのような解釈が成り立つのか、疑問に思うことがある。恣意的誤解としてしか理解出来ない、一見理不尽なことにも遭遇する。

これは、実際はわからない。前提となる構築された概念の違いで、言葉は解釈を左右される。

恐らく、そのような言葉の解釈の違いのように、既に備わった概念の違いで、壁を突破して先に辿り着こうとする努力も異なる。一概に努力を規定出来ない理由は、ここにある。

だから、夢が努力であっても、不自然ではない。これを、無意識の努力と考えている。