行き詰まり

行き詰まりは、必ずしも行き止まりではない。しかし、その先に進める保証もない。他の道の方が確実かもしれない。

このような状況は、実際の自然の中でも起きるし、比喩的にも起きる。多くは、比喩的だろうが、比喩的な例で通じると思う。

出来ることの棚卸しと、他の道の模索と、全く別のことで気晴らしがてら、一度新鮮な感じになるといった、あがきをすることが、行き詰まりの行動になるだろう。その時に、劣等感を感じてしまう場合と、特段の感情を伴わずただ向き合うだけの場合と、仮に大きく分かれるならば、特段の感情を持たない方が、同じような状況であがくことを繰り返せる。

恐らく、このあがきを繰り返せることが重要なのだと思う。劣等感のような感情を持って取り組むのは、容易ではない。だから、頭の良し悪しではなく、適切な表現ではないが、少し馬鹿なくらいが良いのかもしれない。

他の道の模索にしても、容易に出来る場合と、容易ではない場合があるだろう。だから、一概にあがき方が確立されているわけではない。個人差があることが当然だと思う。もし、他人のあがき方を真似るならば、その他人のひとまとまりの考え方を学ぶ必要があるだろう。ある部分だけ真似る意味がどれほどのものか、疑問だ。ひとまとまりの意味は、それだけ対処方法には広い範囲の関連性があると考えるからだ。

多くは、成功の、しかも打開出来たきっかけに焦点があたる。リンゴが落ちたり、風呂に入っていたり、有名な例は沢山ある。その焦点があたる部分ではなく、失敗も含めてあがく部分が大事だと考えている。

自分一人の努力だけでは、打開出来ないかもしれない。その場合も、あがき方の経験は、大事だろう。

この場合の敵は、他人の無理解だ。だから、他人の無理解の声を聞いて、無神経でいられる経験も大事かもしれない。その他人の無理解がなければ、成功を勝ち取っているかもしれないからだ。

このように、敵は、自分の劣等感だったり、他人の無理解だったりする。行き止まりかもしれない。だから、難しい。

その人の、ということではなく、人類の進歩という、大げさな枠組みで考えるならば、誰かのあがきがなければ、進歩は成立しない。少し馬鹿なくらいのあがきは、この大げさな認識が根拠の可能性がある。