個人呼称

ある米国人が、日本に来てテレビ局で驚いたことを紹介していた。それは、スタッフを呼ぶときに、その人の名前で呼ぶのではなく、役割で呼んでいたことだ。日本人なら、違和感なく受け入れてしまうが、米国人だから違和感を感じたのだろう。

慣れると便利なシステムだという感想も漏らした。このことで気がつくことは、幾つかある。改めて、便利な呼び方の認識と、個人の尊重について、だ。

便利というのは、役割さえきちんとしてくれれば、誰だろうと構わない仕組みになっているということだ。個人の名前ではなく、会社の名称で呼ぶ経験があれば、便利さも理解出来る。例えば、役所での入札のような場合、会社名で呼んでそうだ。

逆に、役割が前面に出てくるならば、その人個人の背景とか考えとか、個人を尊重するならば当然考慮する事柄が、ほとんど無視されてしまう。別の誰かであれば、異なることが当然であることも、無視されてしまう。

このことは、何かに気づくことになるかもしれない。この先の話は、誘導とされてしまう懸念があるので、ここで止める。

何が良いことなのかは、わからない。便利だから、そのまま受け入れてしまうのが、実態だろう。しかし、批判の目で見ることも重要だと思う。

米国人に限らず、外国人の話は聞いて損はない。日本人だと気づかないことに、気づくからだ。しかし、その意味では、同じ日本人でも、世代が違っていたり、分野が違っていたりすると、かなり違和感を感じることがある。そのことは、気づきを教えてくれる機会を知らせてくれているようなものだ。

何も、その時点で気づく必要はない。違和感を感じたら、考えればいい。恐らく、その習慣が大事なのだろう。しばらく、気がつかなくても、大事に違和感を保持していれば、気づく可能性は消え去らない。

感じた違和感が、全て大事という保証はない。そこが難しいところだ。