事実と真実

人間が認識できないことを含めた真理をここでは真実として、人間が実際に認識出来たことをここでは事実とする。つまり、全体像が真実で、全体のある一部が事実みたいなものだ。

昔、鳥の色の逆理があった。鳥の色で鳥の種類とするもので、それを聞いてどうしても前提そのものを批判的にみたため、本来の趣旨の意味が理解出来なかった。というより、無視した。

実験でも観察でも、その事実は変わらないとしても、その事実から導き出す結論は必ずしも一定とは言えない。黒い白鳥がいるかもしれないし、青いバラがあるかもしれない。

だから、見た色で種類を判別する「意味」がわからない。そういう意味では、頭が固いのだろう。

だが、例えば、赤い服を着た人が転んだことを見たとしよう。また、赤い服の人が転んだ場合、赤い服の人は転ぶと結論付けたとして、それをどのように考えるだろう。

似てるかもしれないが、足し算引き算で間違える数学者や貧乏な経済学者をどのように見るだろう。

数学や哲学のように考えるならば、ある程度結論は出るが、ここではそれを求めない。むしろ、人間の判断には偏向があると考える。以前にも書いたが、人間を含めた動物は、行動の統合という偏向が働くと考えているので、行動や判断に複数の選択があっても、唯一の選択をするような効率が働くと思う。

その効率は、色々な経験とかの統計情報を元に短絡化する仕組みだと考える。これは、我流の推定だ。

だから、たまたまある色の服の人の特殊な行動を数回連続して見たとして、関連すると結論付けたとしても不思議ではないと思う。ただし、不思議ではないとすることと適切な判断と考えることは、別であることは断っておこう。

世の中は広いから、色々な人間がいる。多様性は大事だろう。ただ、古い時代と違って教育を受けられる機会がある。知識だけでなく、判断を他人任せにせず自分で考えることの大切さに気づく機会も大事だと思う。

最近の竜巻のニュースで、異常気象を疑うことは何かの対応の必要性を感じる意味では前向きで良さそうだ。確かに、有識者からそのように判断されたニュースも聞いた。ただ、そのニュースがなければ、異常気象と結論付けることが適切かは、考えてみたい。

危険が差し迫った状態の警告について、最近の風水害から考えると素直に応じたい。その他の警告も、無視はしないようにしたい。ただ、無批判に受け入れることもないと思う。