巨大事故

巨大事故を考えると、何を念頭におくだろう。実際の被害の大きさで即座に浮かぶ事故だろうか。

飛行機や船舶、高速鉄道、自動車の交通関係や、工場や発電所の産業が想起されそうだ。忘れてならないのは、通信と金融だろう。大きな河川の上流での環境汚染事故も想定できる。

このように考えると、異常事態で大きな影響の可能性はあちこちに潜んでいそうだ。これと自然災害の組み合わせで、より一層被害は甚大になる可能性がある。隕石を持ち出した段階で、組み合わせ以前に甚大さは理解できる。

危険を叫んでいる訳ではない。想定したら、このような考えは誰でも浮かぶとしての思考だ。

起こらないだろう、と考えるのは防ぎようもない事態を前にした人間の性だろうか。それとも、日本人特有の思考なのだろうか。太平洋戦争で、どのあたりで敗戦処理を前向きに考えだのだろうか。巨大な国債発行と将来の膨大な社会保障を前にして、増税を反対する考えはどこから生まれるのだろうか。

日本人以外でも、欧州の一部では危機感もなさそうな人々を見るから、日本人に限定した話ではなさそうだ。しかし、賢明で懸命な人々の国もある。一体、その違いはどこから生まれるのだろう。

人々を個人を特定して差を求めるならば、見つかるとは思えない。賢明な国でも呑気な国の人々のような人もいるだろうし、その逆もあると思う。

つまり、集団とした時に差違が見いだせるのだろう。その集団化作用のようなことは、なんだろう。あるかもしれない。ないかもしれない。

巨大事故のような極めて稀にしか起きないと思われるような事態を会話、中でも日常の会話の話題にできるような関係か否か、みたいなことも考えられる。

もっともらしい理屈を編み出して、理論を構築する考えは、その理論を構築した人の功績で素晴らしいかもしれない。それを否定することはできないと思う。でも、感覚として違うと、説明も出来ずに感じている。

原因と結果には、途中がある。その途中、つまり、立派な理論から見れば些末とされがちなこと、それこそ原因と結果を結びつけるものだと考えるからだと思う。

先の話のような、日常会話は、情報の受け渡しの頻度を多くすると思う。そのような視点を抜きにした格好の良さそうな理屈が信用できないだけかもしれない。

巨大事故を前にして、対応の関係者でなければ途端に無関心になることも、どこかに何かの理由があるのだろう。

例えば、通信の事故、巨大妨害を含めてだが、を想定してみよう。困ることは沢山ある。直接生死に関わる事態もあるだろうし、経済活動の停滞だけで、簡単に被害の大きさを理解できる。でも、起こらないだろう、という気持ちが大きいから、机上の話で冷静になれる。冷静に考えられる反面、突き詰めて考える想像もできない。

なんとなく、そんなところに納得できるものが潜んでいそうだ。