身近な存在

日常で接触する範囲を身近な存在と考えて、当人からみると当人を好ましいと思ってもらいたい者たちと考えられる。

人間は、社会の中で生きていく生き物で、社会から認められたい、或いは、認められるべきと考えていると思う。その範囲は様々だろう。金メダルやノーベル賞もあるだろうし、家族かもしれない。恐らく、そのどれもがあてはまる。どれかだけ、ということはかなり困難だ。

ところが、未成年者とか社会の一員としては、まだ認められてない者たちの関係する範囲は狭い。極端に言えば、赤ちゃんは、母親だけかもしれない。しばらくしてから、父親を認識するのかもしれない。発達するにつれて広がるのだろう。しかし、学校生活を過ごすと、限界がその範囲になりやすい。

この社会範囲の限界は、少し考える必要がある。逃げたい時が問題だろう。様々な社会と関係を持つ場合と比較するとわかりやすい。ある接点では劣等感を感じても、別の接点で払拭できるならば、逃げ場が用意されているようなもので、救いようがある。しかし、その別な接点がなければ、その範囲だけで逃げ場がない。

これは、どのように考えれば良いだろう。恐らく、学校生活以外の社会が必要なのだと思う。塾とかではなく、ピアノや絵画、そろばん、習字といった習い事も、小学生向けには良いと思う。しかし、中高生には別の接点が必要に感じる。

よくはわからないが、週に一度教会に行く習慣は、もしかしたら、そのような効果があるかもしれない。恐らく、そのような全く異なる接点が必要なのだと思う。近所のおっちゃんと一緒に清掃作業をしたりすることも、その事例になるだろう。

身近な存在に認められたいということを少し考えよう。何かを努力する時に、身近な存在を認められたい対象としたら、その努力をどのように考えるか。

お笑い芸人が楽屋ネタをやるのを見ると、その考えを連想してしまう。動画の投稿も身近な存在を受けて欲しい対象にしてるとしか思えない話をよく聞く。これも似ていると思う。

どれが良くて、どれが悪いという話ではない。人間の多くがあてはまる話で、それを知ってどのようにするかは自由だ。ただ、知らなければ、知る機会は無いよりはましという程度だと思う。

多分、人間は説教口調には抵抗があるから、それを避けていることは否定できない。しかし、考えは自由ということを基本にしてるから、筋立てを中心にしたいという気持ちの方が強い。つまり、結論より結論に至る過程を大事にしてるということだ。