宗教いいとこ取り

体系としての宗教と、断片的に宗教の一部を取り上げることと、色々と見方はあると思う。

真理という見方をすると、少々路線違いがはっきりするが、人間のものの考え方を確認するという見方をするならば、対象となり得る。なぜなら、やはり信じられることの構築結果と考えられるからだ。体系は、宗派を守ろうとする人たちが熱心に考えただろうし、個別の説法のように個別に説得力ある考えを披瀝することもあると思う。

体系としてみると、真理との競争のようなところと、その世界に浸りきることで奥深さを感じるようなところがある。競争してしまうと真理至上主義では理解出来ない芸術的な思考の構築を見逃してしまう。現代の科学技術で武装してしまうと、感性が鈍くなるという説明として理解出来るかもしれない。

宗教関連の行事以外でも、宗教関係者の話を聞く機会はある。現代科学技術を踏まえて、現在を語る話には、その人なりに考えたことが盛り込められている。要は、虎の威としての宗教ではなく、日常生活としての宗教という意味に解釈する訳だが、それはそれで歓迎したい。

何かを語る時に、一つの共有する世界観は便利だ。それは、恐らく歌舞伎や能、狂言、落語に通じるものだと思う。芸能は観覧することが目的という意味で広く受け入れられる余地がある。つまり、演者同士が競争関係であっても、その両者を観覧には特段の支障はない。しかし、宗教の場合、複数の宗教の話を聞くことに対して、何か失礼がないような配慮の必要性を感じてしまう。この敷居の高さは障害とも言える。

世界観の拝借は、特許ではないから、信者でなくても構わないと考えて良いだろうか。もし、構わないなら、伝統的な宗教は便利だと思う。なぜなら、広く共有可能だからだ。実は、宗教由来とは知らずに使用している言葉は沢山ある。

一度戻ろう。

宗教ということで考えたが、何かを語る道具として考えるなら、共有する知識が広ければ、容易に通じやすい。先の伝統芸能以外にも、囲碁や将棋由来の言葉が日常的に使用されているように、野球やサッカーといったスポーツも、共有可能だと思う。野球の哲学みたいな話は、歓迎されている実態がある。相撲や柔道も同様だと思う。広ければ良い訳ではないが、剣道やゴルフを挙げるまでもなく様々なスポーツは共有可能だろう。

つまり、無機質にみると、実は人間味溢れると感じられて、逆理のような感じになることが興味深い。必要とされなくなれば、自然と衰退するだろう。維持とか発展とか、それとは異なる必要という需要をあるがまま受け入れるなら、恒久的に存続すると思う。需要を高める努力には、違和感を感じる。