長寿企業と伝統芸能

百年を超える企業が少なからず存在するらしい。伝統芸能も長く続いているようだ。勿論、何か共通するものを考えたい。

長寿企業と先端技術の組み合わせには、やはり何か違和感があるが、決して否定出来ない。素直に伝統的な技術を伝承していると認めたいところだが、創業時と比較すれば、変わっていると思う。

伝統芸能も、多分創始の頃と比較すれば、何かは変わっていると思う。

まさか、何かが変わっていることを共通するものの代表と考える訳にはいかないだろう。しかし、共通することを認めない訳にもいかないと思う。

継続出来るという観点で見れば、継続出来ない原因の回避だと思う。つまり、生物同様に絶滅を回避した理由と似ていると思う。生物の絶滅の原因が環境不適応だとすれば、長寿企業と伝統芸能の断絶の原因も環境不適応と考えられる。かなり、短絡的だ。

では、環境とは何かを考える。それは、特定するものという考えと特定するものではないという考えがあると思う。つまり、環境をいくつかの要素に分析的に分解するみたいな捉え方と、分析的理解以外の捉え方になる。

仮に、分析的にするなら、市場とか技術とか何か説明の材料になりそうなものを対象にする考え方になるだろう。それはそれで、なんとなく説得力がありそうだが、恐らく納得出来ない。なぜ出来ないかと云うと、納得の感触が感じられないからだ。

説明的ではない説明をすると、環境に適した生物が必ずしも絶滅を回避出来るとはならないからだ。適したことに向かうのではなく、適さない事態を乗り越えられるということになるとも言える。

環境に最適化して発達して繁栄しても、環境の変化で絶滅するなら失敗である。比喩的に言えば、現在の成功企業や成功芸能は、環境の変化で衰退する可能性があるということだろう。

では、その環境変化とは何か、と戻ることになる。だから、感触が持てない。予測不能と考えているからだと思う。

一度戻ろう。

日本は、それなりに歴史が古い。その歴史の時間軸で見ると、失われた何年とかも歴史になる。それを失敗と見るのも、一時的なものと見るのも、どちらか一方だけが正解とする根拠はないと思う。

長寿企業をどの範囲を対象にするか、難しくなる。伝統芸能は、恐らく、必然的に伝承する道を選ばざるを得なかったのではないだろうか。最適化しようにも市場規模に制約されて拡大出来なかったと思う。

衰退した芸能にあたるかはわからないが、見せ物小屋や紙芝居を無理にあてはめると、環境不適応と想像する。

既存市場を前提に競争するなら、市場規模相応が望ましいと導き出されるようだ。競争の対象が何か、が問われるということだろう。

これは、誘導だろうか。そのつもりではないが、思考を辿ることは出来る状態だから、別の結論に辿り着くこともあると思う。

思考の過程を明確にすると、インチキが出来ない。思考の過ちを正すことは可能だ。また、嗜好性や感性の余地もあると思う。それは仕方がない面でもある。許容範囲かどうかは、わからない。

さらに、思考を進めると、短期的結果の追求より長期的結果の期待の方が望ましいとも言える。ただし、保証するものではない。