読書

愛読書を紹介する新聞のコラムに、ある大手企業の会長のものが載っていた。

色々考えさせられた。挙げたものは、色々あるが、対比する話が興味深いと思った。英雄を扱う小説との対比とか。

小説は、若い時に読む感想と、年を経てから読む感想は、異なると思う。若い時に読むべきだし、年を経てから読むと楽しめる。ということが、素直に納得できる。やはり、若い時の小説は教養に通じるとは、同じ解釈で嬉しかった。

この会長は、ある雑誌で、社長は憧れる存在とか希望する存在とか、そのような存在ではないみたいな話をしていた。正確には、もう少し言葉があったが、記憶は、大雑把だ。しかし、ほとんど完全に同意する。なんというか、日本の組織を特徴づける表現だと思う。

若い頃は、歴史上の人物を主人公にした小説が好きだった。最近は小説を読まないから、小説の好みはわからないが、多分、英雄が出てこない藤沢周平が好きになっているかもしれない。その差は、どこから生まれるのだろう。やはり、色々経験しているからだろうか。まあ、とりあえずその理由としておこう。

似ている話がある。男はつらいよ、という映画を若い頃は面白いとは思わなかった。どちらかと言えば、派手な映画が好きだった。しかし、今では、男はつらいよ、の一話のある場面が、映画の中で最高だと思っている。その場面とは、桜の結婚式で、婿の父親が挨拶する場面だ。

もう一つ、科学者と芸術家を羨ましく感じる話があった。世俗の泥沼の渦中にあると、羨ましく思うのかもしれない。

世俗的といえば、リフレというか期待説が、実感では理解出来ていない。理屈は理解出来ても、実感出来ないからだろうか。その点をバイアスとするから、現在の緩和策も冷静に評価すべきとは、頭では理解する。しかし、実感出来ないことに自信が持てない。多分、その辺りが限界を物語っているのだろう。

政治の世俗的な部分は全く理解出来ない。しかし、逆に弱点は容易にわかる。例えば、現在の自民党もどうすれば変革出来るかも簡単だ。

ここで作戦を書くつもりはない。自民党に荷担する理由がない。自民党への荷担より、国民のためになる方向が確信出来るなら、自民党抜きに納得できるが、その方向が見えない。最低でも年金について道筋が見えなければ、確信出来ない。逆に言えば、道筋が見えれば作戦は書けるのかもしれない。

一度戻ろう。

読書は素晴らしい。誰かが、同じ本で何度も感動した話をしていた。その感動を忘れているから感動したみたいなことを述べていた。お得だ。

面白くて夢中になった記憶はあるのに、内容を忘れている小説は確かに沢山ある。お得かもしれない。

断片的な知識ではなく、体系的な知識を重視しているので、小説も長編が好みの傾向がある。いけないことかもしれない。そういえば、矛盾しているようだが星新一は好きだった。

無人島に一冊だけ持っていけるとしたら、広辞苑と考えていたが、どうしたものか。小説は、何度も読めないと思っていたが、どうだろう。

日本の古典は、古文として読むことには、抵抗があるが、手は出したい。現代訳は便利だが、なんとなくそれにも別の抵抗がある。わがままだ。

すぐ世界に売れることを考えてしまう。日本語が公用語とされる地域もあるらしいから、日本語のまま売れることに期待する。