本業で倍返し

倍返しが流行語になっているようだ。実は、そのドラマは見たことがない。だから、倍返しの意味を取り違えているかもしれない。

米国のメジャーリーグでは、ある1日だけ全員が同じ背番号になる日があるらしい。その番号は全チーム共通の欠番というおまけまでついている。

感動したのは、その人がチームに入る時に、監督か誰かに差別に対して野球で返せみたいな趣旨の話を聞いたらしい。それで、頑張って全チームからの特別な待遇を受けるまでの好成績を残したということだ。恐らく、その本業に徹したことが評価されたのではないだろうか。

似たような話は、日本でもある。死球をうけて乱闘に巻き込まれず、次打者が本塁打を売ったという話だ。

雑誌で紹介された話もある。会社を経営して、信用していた人間に騙されて、倒産しそうになったけど、騙した人間が恥ずかしく思うくらいの立派な会社にすると奮起して、立派な会社にした人もいる。

これに類似する話は、結構ありそうだ。なぜ、そのような行為が出来るか、という理由も関心があるが、別の視点で関心がある。

テロとか暴力に訴える者たちの存在を考えると、上記のように方向転換出来ないだろうかと考えてしまう。

方向転換する理由を抽象的な本業への動機付けにつながるなら、その支援策は歓迎されるだろう。進出可能な国が増えるし、安心して観光も出来る。恩恵は多岐に渡る。

仮に本業の場の提供が出来るだけで、幾ばくかの効果が明確なら、その場の提供は数多く出されると思う。

雇用の機会もあるかもしれない。言論で主張する場もあるかもしれない。様々な試行が必要かもしれない。人助けに連なる行為は、恐らく普遍的に賞賛されるから、そのような支援活動への勧誘は有効と考える。

直接その対象の者たちではなく、ある程度同類意識の範囲の人たちが評価される場でも代替効果はあるかもしれない。丁度、ワールドカップやオリンピックで日本人が活躍することと同様な効果だ。

良くわからないが、異なる宗教の偉い人が互いの宗教を称えるような場は、そのような場になる可能性があるような気がする。

日本は、欧米と異なる方法で平和を追求する義務があるのかもしれない。必ずしも、武力を背景とする力に依存しない、いわゆるソフトパワーにこだわらなくても良いのではないだろうか。なんとなく、日本固有の何かを求めようとすると、発想の柔軟性を失って、本来的な実力を発揮しないことになりかねない。

小説や漫画、映画も、場の提供の候補と考えても良さそうだ。直接的効果より迂遠な方法を想定すると様々な考えが浮かぶと思う。それこそ、誰かの考えに刺激されて別の考えが浮かぶような創発の発生する活動が観察されるかもしれない。期待したい。

国外が念頭にあったが、国内でも十分意味があると思うが、それ程大げさなものでなくても効果はあるのではないだろうか。こちらは、数が少ないから投入努力に比較して効果が少ないと思う。誇れる話ではある。

いや、教育の観点では必要性がある。ただし、積極的な方策ではなく、背景的なものが効果的なように思う。特定の場面とか部分的に着目するということではなく、常時感じられるような環境という意味だ。例えば、他人を貶めるような言動には、穏やかな注意をするみたいなことだ。

これは、誘導だろうか。特定の提案の意図ではないのは、いつも通りのつもり。ただ、道筋の提供というに過ぎない。