守破離

色々なところで語られる言葉で、唯一の解釈もないと言って良いだろう。

わかりやすい説明は、ある剣道の解説書にあった言葉だ。概略は、まずある先生に一通り教わり、次に他の流派から教わり、最後にそれらを越えて自分のものを獲得する、みたいなことだった。

現在なら、ある教授の指導を受けて一定まで達したら、次に別の複数の先生の指導を受け、最後に独り立ちする。

或いは、一人前まで部署を固定して、ある程度に達したら他の部署や現場を経験して、その後部署や現場を任される。みたいなことになるのだろうか。

これらをどのように解釈するかは、勿論自由だから、その自由な解釈の一つとして、このような解釈もあることを示そう。

一つの体系の概念を保有して、別の体系の概念保有で、類似性と共通性を自分なりの固有の新たな概念を形成すること。

割と一般的にしてるから、大小様々に適用出来る。例えば、大きな話としては政策になるし、小さな話としては買い物になる。

体系と考えることが重要で、部分と全体の整合性を考慮することが欠かせない。つまり、買い物の例で言えば、ある時は牛乳を買って、次の機会にヨーグルトを買い、その事例から、牛乳を買うか買わないかの違いと解釈するよりも、乳製品の括りと解釈する方が適切というようなこととか、顧客に全員で挨拶することが適切とされる現場と、社長の訪問では挨拶不要で業務専念が適切とされる現場があり、それを共通とみるのか相違とみるのかは、その人固有の判断ということとかだ。

同じ情報でも、それまでの蓄積した経験や知識で、共通だったり相違だったりする不思議さに、人間の判断の複雑さを感じる。それは、判断の違いを所与とするかしないかの違いからくるものかもしれない。

勿論、所与とすることが現実ではあるが、一方で真理の追求を断っていることを考えても良さそうだ。それは、至るところに解明されていないことがあるとも言える。

前に進むことだけが適切とは限らない。そこが難しいところだ。前に進まない事実を停滞とも原因解明とも、前に進む事実を行動とも原因未解明とも、解釈可能だ。だから、体系として判断することが重要だ。

ある課の適切は、別の課では不適切ということを、どのように解釈すれば良いだろうか。両立もあり得るし、どちらかだけを採用することもあり得る。

このような状況を大きく考えると、国と国の争点になるし、小さく考えると今夜の食事になるだろう。同形のような感じではある。

つまり、状況を単純化して他の適切を遮断すると、狭い体系を保守出来るが、他の体系を除外する状態を説明している。このような同形のような状態は、様々で観察される。唯一解があるならば、その解に従えば良い。その唯一解がないから、難しい、そして、不幸なのはその状態を認識しない、或いは、出来ないことだろう。

人間は、当事者の立場と、第三者の立場と、これらの枠組みの認識が異なるようなところがある。どのような努力が好ましいのだろうか。あらゆることを一括りに出来るなら、その努力の探求になるだろうが、一括りに出来る根拠の存在が必要だ。つまり、存在が提示されていないならば、個別の努力しか残されていないと考える。

例えば、政策を非難する時に、政策そのものよりも、その体系に関心が向かう。で、体系の存在が感じられないと、途端に興味を失ってしまう。実は、弱点と自覚している。まだ、弱点を自覚しないよりはましだと、言い訳にしよう。なんか、以前に触れた気がする。

守破離は、○○の道を究めることを差すことがほとんどだろうが、一般化も出来ると解釈した。そんな解釈も面白いかもしれない。

剣道は、なかなか興味深い。確か、八段に昇段する人数は年間二十人もいないらしく、日本選手権で優秀な戦績でも昇段は難しいと紹介されていた。素人では、昇段は理解出来ないと思う。テレビ番組で、普通のスローモーションで見分けがつかず、2000分の1秒のスローモーションでなんとか見分けがつく勝負が紹介されていた。勿論、審判は的確に判定していた。

このような分解能はすごいと思う。だから、何か見分け方があるのだろう、と言われると承服以外の手段が思いつかない。人間の脳の能力なのか、高段者の能力なのか。ん~、難しい。