統計専門家

政府やその他の機関は、色々な統計を出しているが、統計の専門家としてどれだけの人数がいるのだろう。

米国のFRBには、数千人いるらしい。

国会でも必要になりそうだから、純粋数学を含めて、その養成の学部大学院を充実させて、卒業生の採用を検討すべきだろう。

とかく、事務系が重視される文化のようなものがあるようだが、統計に限らず、専門を重視する文化が必要とされると思う。

伝統的な専門家、例えば、医学、薬学、工学、建築、といった分野は、拡充の検討であり、新しい分野は新設の検討になるだろう。

いわゆる、公務員の削減という文脈からは、外れる話になるが、その文脈とは異なると解釈する。

中身を細部に見ると、異なる見え方があると思う。公務員という括りで、同一視すると、必要とされる要件を見逃すことになる。

統計の場合、誤差で済まされない状況が想定されることを感覚として認識出来る者の必要性の強度と、感覚として認識出来ない者の必要性の強度は異なると思う。

強度の違いを互いに認識しなかったら、恐らく意見の平行線が想像される。だから、互いに異なることを認識してから、意見交換が望ましい。

激流も、勢いが小さい時に感じられる者と、切迫してから感じる者がいると思う。空振りの可能性を考慮したら、どちらか一方が適切と断じることは出来ない。難しい。

即応性が望まれる事態を想定したら、その判断材料の鮮度を大事にしたいとする傾向は強まると思う。鮮度だけではない。精度は当然ながら、情報の取得局面、解析局面で考慮される必要がある。そもそもの話に立ち入って検討出来る専門家になると、統計という分野に限定出来ない。そこから導き出される判断は、必然と考える。

その必要性は、誰が感じるべき話だろうか。その感じるべき存在の未熟さと、その存在の設計の責任者と、どちらの責任が重いのだろうか。この問いを理解出来る者は、恐らく少ない。

勿論、統計に限定せず、一般化出来る。しかし、なんとなく気が殺がれた。

新聞で喩えれば、視野にいるのは、購読者か国民か、の違いみたいなところがある。人間自体同じなら、どちらも同じと考えるとするなら、さらに説明する義務感を持つべきだろうか。それとも、親切心と捉えるべきだろうか。そして、相手の鈍感を指摘すべきことだろうか。恐らく、このようにして、無用な諍いを避けることで、鈍感さは拡大していくだろう。

どの行動が適切なのだろうか。なんとなく、神の存在を求めてしまう気持ちも理解出来そうだ。

一度戻ろう。

戦争では情報が大切とされる。情報には、色々あるが時代と共に変化すると考えると、統計以外にも、変化の必要性に気づくだろう。変化は、費用がかかる。その費用は、必要不要を誰が判断することなのだろうか。または、誰が助言の義務を負うのだろうか。

感度の適切具合も同様な話になる。ん?なんとなく、袋小路に入ってしまったような感覚だ。

この時期のこの気温は、なんとなく異常に思う。そのせいなのだろうか。ん~この袋小路感覚が、どこか胸騒ぎのようにも感じる。

情報の管理者と取得者を同一視する必然性はない。お!袋小路を脱した。

情報の提供とか広範囲の処理領域が、管理者を同一の存在を前提とすることを当然視させている。ところが、取得者は分離可能だ。もしかしたら、設計者も分離可能かもしれない。なんとなく、そんなところだろう。

柔軟性をもって、役割分担を検討出来そうだ。