思い思い

自公民の場は良かった。政権党としての変革の話だが、なかなか挑戦的で、一つは移行措置が必要だと認識する。

簡単に言えば、衆議院専用政党となることと、中学生向けに各議員の思いを綴った書籍を発行することだ。前者は重大な意味を含むので、敢えて説明しない。しかし、米国議会の様子を課題として考えることがあると思う。

書籍発行の理由を文脈として考えると、選挙を軸に見るべき点がある。選挙で負けた時、選挙に臨む時、選挙で選ばれた時、となるが、関係は結ばれている。

負けた時は即ち失業だから、議員の失業対策の一環の視点が必要だと思う。失業対策が十分だから、本分としての議員活動を妨げる可能性もあるが、会社員を辞職する誘因が増える効果が高いと想定される。また、政治家になる理由は様々だろうが、自分の言葉として中学生に説明できる内容があれば、十分伝わると思う。問題は、伝えられる内容かどうか、だろう。借り物の言葉で、アリバイ工作をするかのような言葉であれば、感じてしまう。

米国議会から、何を課題とするか、は個人差がある。ここでは、団体の負の面と、議会の怠慢と考える。

団体の負の面は、メーカーの製品が、卸や小売店の意向に向いているか、消費者に向いているか、みたいなところと同形だ。つまり、支持団体視点か有権者視点か、が同形ということだ。他国だから冷静になれる。特定の団体を考慮しなくて済むからだ。視点が有権者に向かう意味で、書籍発行の理由になる。

議会の怠慢の放置は、憲法の視点で考える必要があると考える。その視点で考えるならば、最高裁と憲法学者の参画が発想にあるが、法的根拠がない以上、恐らく、両議長からの誘いによる私的懇談みたいなところで、課題を共有する機会が必要だと思う。三権の長の場も課題とは思うが、その場合、報道機関のなんらかの関与が必要だろう。

三権の牽制と、アカデミックとジャーナリストの対立概念も評価できる。一般的理解ではないが、後者の対立概念は重要だと考える。明確な対立を認識できないから見過ごし易い。現在に限定せず追求する立場と現在を限定して追求する立場の違いみたいなものだ。だから、前者は次世代以降の歴史的評価を重視して、後者は現在の評価を重視する。

恐らく重要なのは見識だと思う。日本の見識が、その場に集うからだ。資産は有効利用すべきだろう。その見識を高める場の存在が、制度として存在することと、裏として存在することは異なると考える。だから、憲法の視点だ。

これらの懇談の場の念頭にあるのは、物理学や数学のように、課題を共有して、克服の協力による、戦友意識だ。難題の前に、建て前とか面子とかの無力を感じることで、戦友意識は自然と醸成される。克服という達成は、頂上に達した感動が生まれるのは、最先端の研究と同形だと思う。

ただし、自然科学と異なり、克服の明確な基準がない。だから難しい。多分、なんらかの目標設定だと思う。が、参画者の自発的設定が望ましい。

現在の憲法で、国会の暴走の抑止は織り込まれているが、怠慢への対策は織り込まれていない。これを、警戒レベル0か7しかない発想より各段階の存在のように柔軟性ある発想が、感性としては好む。

やはり、課題の認識だろう。国会を現場で観察できる機会の提供から始まるような気がする。

ねじれ国会も、怠慢の一種と捉えるかは、個人差がある。従って、ねじれを健全と考える立場と、問題とする立場では、対処が異なると思う。衆議院専用政党は、健全とする立場からの発想だ。それは、立場で比較すると、たちまち論点がずれる。必要な前提は、国家運営が正常に機能することで、その前提の上での専用政党とするならば、論点がずれることが理解できると思う。

体操競技の活躍ぶりを喜ばしく感じることで、娯楽的な存在で認識することを否定するつもりはない。しかし、新しい技を編み出す意欲を個人の意欲に限定する発想より、体操競技のルール変更に意欲を生み出す環境の設計を評価する発想が好ましいと考える。

政治をどのように考えるかは、自由だ。だから、その自由の一つに社会の活動の環境設計とみなす考え方もある。その考え方に即するならば、体操競技を研究する価値を感じると思う。

アジアバロメーターという調査があるようで、その調査の中に日本人は他のアジアの国に比べて、思いやりが最も重視されるらしい。

だからかもしれないが、敵対的になる構図を避けたがるようなところがある。それを実利として利用するならば、敵対的構図より協力的構図で果実を獲得する発想が、効率的に思える。

選挙区で、支持者を前に良い顔をしたい気持ちは、政治のバイアスの一種で、それが政治の効率を妨げる一面がある。例えば、ある事象を個別事象として対処することと、共通事象として対処することでは、比較にならないくらい効果が違うことが理解できると思う。

この時点で、肌感覚として理解できるならば、次の説明は不要だ。

個別事象への対処での効果は、その固有事象に限定されるが、共通事象としての対処は共通事象全てで効果がある。その全てとは、時間の制約がないから、来年も十年後も機能する。つまり、例えば、ある自殺の1件と、その年3万件と毎年の件数全体を比較すれば、容易に理解できる。

共通事象を、その思いを共有する者で課題を認識して、それを克服する努力をするならば、共通事象への対処になる。

この時に、対処が浮かばないとしよう。その状況は、自然科学の課題と同形だ。課題は通常容易には克服できない。だから、立ち往生して足掻くことになる。その同形の構図は、政治での課題を前に対処が浮かばない状況と同形だということに気づく。

この時に、安易に解決を他者に求める経験ばかり積んでいると、自らの貴重な経験の蓄積の機会を失う。

努力には色々ある。一人前が初段だとすれば、自分の実力が七級程度ならば、努力をやめるべきだろうか。

容易に考えられるように、考え方を二つにしてみよう。七級程度ならば、やらない方が良いとする考え方とやる方が良いとする考え方の二つだ。さて、経験の蓄積はどちらで出来るだろうか。

二十級からでも経験可能としない限り、実力を粉飾する誘因が働くことが理解できると思う。その道を用意しないすることから始まるような気がする。

そのようなことを述べながら、逆のようなことになりそうだが、実は平易に語ることは難しい。特に、専門領域で活躍する者にとっては、逃避続出する現象は珍しくもない。ん?苦笑いしながら汗をかく顔が浮かぶ。

かなり大胆な考えの提示は、時として旗印のまま終わる運命が待っている。十分理解する者は、移行措置から始める。それも、七級とか十級とか。