運転手

なんとなく、国民、議員、閣僚、行政の関係は、客、案内人、運転手、自動車のような関係に思える。要望を元に、複数の経路の選択、運転の仕方、整備された車という感じだ。

時には著しく性能を発揮する場面があるから、車の性能向上も普段の整備も欠かせない。

運転手は、定められた経路を走行するが、状況によって、判断する必要が任される。

経路は、複数用意されていて、同じ目的地でも、多様な評価で吟味される。例えば、遠回りだが空いている道、混雑するが近道、といった具合に違いが鮮明になるとわかりやすい。

用意された経路からしか選択出来ないことが明白となる。

平易な説明を考えると、こんな感じになった。適切かは、わからない。難しい。

影響のある人間が、この時期に何かを主張したベタ記事が載っていた。詳細がわからないから、判断しかねるが、多くの者は必ずしも保留するとは限らない。恐らく、目的は他にある。

中銀の発言による市場の反応と同形と思える。当事国の場合、偉い教授でも適切に判断出来ているという感じがしない。結論を決めていて、それらしい理由を挙げているだけのように思う。

そのようなバイアスの例として、神経経済学だと記憶しているが、日本人の自己の利得を少なくしても他者利得を少なくするような実験結果がある。米国人はあまりないようだから、日本人の特質かもしれない。

これを所与として考えると、子どもの頃からの多くの勧善懲悪の話の影響のような気がしてくる。それに比べて、スーパーマンは、勧善懲悪の話というよりも、ヒーローもののように米国では受け取られているのだろうか。話の流れで、その解釈を素直に受け入れてしまう。

解釈自体は、疑念を持つべきだろうが、話をそのまま進めると、違ったものが見えてくる。

つまり、勧善懲悪ものは、多くの者の判断にバイアスを生じさせているという結論を導き出して、そのバイアスの存在からの評価ということになると思う。存在を否定するために、勧善懲悪ものを排除するという考え、そのバイアスの逆バイアスを考案する考え、バイアスを温存して特質として正の評価とする考え、のように色々ありそうだ。

ここで、バイアス自体を抽象化した方がわかりやすいかもしれない。

何らかのバイアスと、それを生じさせる国民的に広く共通する習慣が、因果関係が検証された場合、それをどのように扱えば良いか、といった社会的課題を認識する。

危険な解釈に踏み込むと、自国に不都合な他国の国民性質を、検証済み因果関係として政治的に利用可能か、みたいな危ない発想を出現させる。

検証という事実と、その評価及び利用といったものに、冷静に考える必要があるのではないだろうか。先走った考えかもしれない。

他人に迷惑をかけなけば、基本的に行動は自由という、基本的人権の侵害を排除することは明確に支持されている。ここで、迷惑を物理的障害だけでなく、侮辱等の精神的迫害は説明不要な、明白な迷惑だが、自殺行為も、迷惑の特殊な種類に属するとする考えを紹介する。

最近知ったことだが、フランシーヌの場合、という歌は、フランスでの事件が題材になっている。貶めることは出来ない。賞賛することも出来ない。ただ悲しむことしか出来ない。そうした中で生まれたものではないか、と想像する。歌が生まれたことは誇りに思うが、後続の例を考えると、という意味で、後続を絶たねばならないのではないだろうか。微妙なものだから、個別事例としては遠巻きにしたいが、類似後続の断絶は切り離して課題と考える必要があると思う。ん?トートロジーだ。

かなり、脇道に入り込んでしまった。

一度戻ろう。

自動車整備では、技術の高さに幅はあっても、技術の流儀流派の多様性は求められない。

運転の技術の高さは強く、流儀流派の多様性は多少求められいるように思う。

経路の選択肢たどうだろうか。それ自体、つまり、選択肢の多寡の適切さに幅があるように思う。端的に言えば、少ない選択肢と多い選択肢の両方の同時存在ということだ。

これは、感覚を言葉にしたようなものだから、これらを説明することは難しい。逃げているのかもしれない。わからない。でも、しっくりくる感覚がある。