内弟子

経営学とは、みたいな連載が新聞で始まった。類似に期待したい。

伝統的な世界で、内弟子の制度が知られている。現在も続いているかは、わからないが、囲碁、将棋、相撲といったものにみられると思う。親子で伝承される芸能も、内弟子と同じようなものともみなせそうだ。

通い弟子も含めて、実態は清貧生活ではないだろうか。これは、言葉を変えれば、生活基盤の提供と知識経験の蓄積の組織化と考えられないだろうか。

要するに、長く続く理由は、この一人前になるまでの過程に見つけられるのではないだろうか。もし、この過程を肯定するならば、真似をすることは大いに意味があると思う。

それらの世界で育った者は、多くが世間的な常識人で、極端に偏った人間が不在であることから、失敗のリスクは小さいと思われる。

途中で断念する場合もあるだろうが、その場合も断念を明確にして一般人として通用するならば、これらの育成システムは色々と研究の対象になって然るべきではないだろうか。

思うに、開放的閉ざされた世界という、矛盾するような玉虫色的な境界がその特徴なのかもしれない。

もしかしたら、その極端に凝縮した育成システムが、成功とされた過去の企業の新人教育だったのかもしれない。

一個人の知識経験の蓄積も大事だが、連綿とする世代の繋がりこそ重要な蓄積だと思う。

ということで考えると、将来の需要量という情報が育成システムを必要とするか否かの目安になりそうだ。個々の世界の判断になるだろうし、一般とすることは困難だろう。

多くの費用を要し、かつ、社会的に有用であれば、政治の関与は議論されてもおかしくはない。だから、教育は議論の対象になる。ただ、貢献する場を固定していないだけに過ぎない。

退役社員の育成システムへの無報酬近似関与は、大いに歓迎される。この成功例があるはずだから、それらを研究して還元する流れが欲しい。恐らく、流れの渦中では、環境整備までの視野は広がりにくい。一歩引いた視点の存在が必要な気がする。

恐らく、出来ることから始める、という程度の感覚で良いのではないだろうか。大げさに始めると、想定の期待に達しないと拙速に判断される懸念がある。

異能の積極的育成システムというのは、また別の観点が必要だろう。