二段階の読書法

現在の仕組みでは、地方が努力して外国から企業を誘致する誘因がないみたいなものだろう。不足気味なら、補填するようなものだ。この理屈は理解出来る。

一方で、地方行政の努力が働かなくても、旺盛な民間活動が機能していると見られることもわかる。知事が働きかけて誘致した事実があれば、因果関係として認識しやすい。

恐らく、そのどちらかだけが正解とするのではなくて、その間のどこかが適切な評価なのだろう。だから、客観的に補填する基準を作ったり、行政評価が行われて、その基礎情報を元に修正し続ければ良いと思う。

読書を書き手の考えに素直に従う読み方と、読み手の解釈のまま自在に発展する読み方があると紹介された。なるほど、と思う。すぐに思い浮かべたのは、守破離だ。この読書法では、二段階だが、まず、型を作る段階とその後の発展段階のようなものになるだろうか。まあ、その後の段階が思いつかないだけかもしれない。

解説のような意味合いの書物なら、まず、その解説を一通り理解することが、最初で、次に、その理解の上で批判したり、自分の考えを補強したり、新たな考えを編み出すようにすることだろうか。

実際に、読み込まなくても、これは可能かもしれない。

紹介では、二段階のようなことには全く触れていないので、単に二通りの読み方と解釈するのが、素直なのだろうか。そう何度も読み返すことは少ないだろうから、二段階より二通りの解釈が素直に思う。

では、どちらかしか出来ないと想定してみよう。どちらが望ましいだろうか。この想定なら、発展する方が良さそうに思う。果たして、その通りだろうか。

単純に、発展を目的と想定してみよう。自分の知らない知識や思案を新たに獲得すること、と考えるなら、読み終えたときに獲得出来ていないと、その読書は価値が下がると考えて良いだろうか。なんとなく、妥当とは思えない。

では、逆に書き手の考えの枠の中に閉じこもることが適切だろうか。これも頷けない。

やはり、そのどちらも意味があるように思う。では、再読が必要だろうか。

多分、必要な場合と、必要ではない場合があるように思う。読んで大体記憶出来ているなら、必要ではなさそうだ。

小説も素直に読むべきなのだろうか。そうかもしれない。