英語一律化批判

解説にあった海外移転の雇用への影響は、海外からの移入で帳消し効果が期待出来る。机上では。直接投資の旨味がないなら、それを解消するのが本筋だと思う。長期で、輸入と比較して魅力がないなら、どこかおかしいと考えるのが素直ではないだろうか。税もあるかもしれないが、食品製造だとして原材料の輸入に障壁があるなら、製品輸入と原材料輸入の比較になるだろう。

中国の銀行の不良債権は、考える。数字は正直ベースと思う。やはり、会計が整備されてないのではないだろうか。製品在庫が積み上がっても、キャッシュフローはごまかせないから、銀行が捕捉出来る。

このまま放置したら、実体経済が安心だと勘違いして、ある結果に突き進むだけのように思う。この辺りの感覚が明敏な者が、あの国にいるという感触が持てない。日本にも影響あることだから、日本の90年代の状況を感覚として伝達出来ると和らげる気がする。

距離感がわからないから、警戒を促すだけに留めるのか、本格的に派遣するのか、そのどこかは必要なのではないだろうか。向こうの体面を重んじる傾向があるので、直線的な手法はまずいが、こちらの誠意が伝われば、結果的に日本の経済も救われるかもしれない。

英語の入試での話がある。個別企業や個別大学の話ならば、多様性の一つの個性のように評価出来る。しかし、一律の話としては、頷けない。

それ程の魅力があるなら、新入社員の待遇で示すだけで十分だろう。その会社に入るために頑張る気持ちになり、他の会社も影響を受けると思う。要は、理屈ではなく実績が納得しやすいということだ。

日本企業に魅力があれば、日本語を修得しようとする外国人も増えるだろう。日本語自体の進化もあると考えている。もっと大事にしたいとする気持ちは確かにあるが、その気持ちで進化を認めているわけではない。根拠を蓄積したい。

入試や入社の試験に採用されるということは、その評価を目的として努力資源を最適化する働きが想定される。これが望ましいことなのだろうか。

教育を社会に適応する過程と考えるのか、教育を受ける人間の尊重に委ねるのか、みたいな根源的な話で考える必要があると考える。つまり、入社数ヶ月の効果を答え合わせにするのか、一生の思考の糧を答え合わせとするのか、みたいな違いとも言える。

より根源的な影響を若い時に受けたなら、その一生は大きな果実を獲る確率が高いと考えているが、その理由は歴史にあると思う。根源的な影響だから、自発的に獲得する以外の方法は難しい。現在は、「これが根源的ですよ」という情報で氾濫しているからだ。どれが最適な情報であるかは他の誰でもなく、その人間自身で選択されるべき事項ではないだろうか。そして、必ずしも若い時に影響を認識出来る保証もない。数十年後に改めて認識出来ることもある。

新入社員ではなくても、数年後の社員を想定してみよう。その社員の評価は、数十年後も役立つだろうか。否定しているわけではない。肯定でもない。ここで言えるのは、数十年後の評価を目的として、現在の評価をしているわけではないことだろう。その昔、日本海軍兵学校のハンモックナンバーというものがあった。兵学校の成績が終生ついて回ったらしい。これは、検証されたのだろうか。先の評価の話を続けると、世の中の変化を考慮すると、数十年後を確実に保証することは難しいと言えるだろう。その困難に挑戦することを拒むものではないが、ある時点で適切な知識が恒久的とせず、より本質的な何らかの能力を求めることがより適切と考える方を提示したい。

どんな知識だろうと、どんな学科だろうと、その対象は不問だが、一つの体系の修得を終えたなら、その体系を批判なりして自分流に他人に説明出来るようにすることを提示する。要するに、守破離のようなものだ。自分流に活用するコツのようなものが得られたら、他の分野なり、さらに先に進んだり、という具合になるのではないだろうか。だから、体系が大きく広く、そして高いほど色々な恩恵があると思う。

多分、そのような修得方法をするならば、必然的に何かに対して真摯になると予想する。その何かは、わからない。何かの自分では説明出来ない事実に対してかもしれない。他人全ての考えかもしれない。あくまでも予想だから、そのような状態にならないかもしれない。

ただ、それなりの母数で判断すると、一流の人間は、何かに対して真摯であると感じられる。日本人の場合は、謙遜という態度が多い。外国人の場合は、必ずしも謙遜という態度ではないが、真摯であるべき場では単なる一個人になっている。

一度戻ろう。

色々な知識の保有する情報量、または、何らかの客観的な技術技能でしか、他人は評価出来ないのだろうか。免許の試験のようなものであるなら、むしろそのようにあるべきだろう。

しかし、努力資源を向ける方向性を示すような存在として考えた時に、客観的な評価に拘る理由はどこにあるのだろう。多分、複数の目的があるために理解と整理を困難にしているような気がする。

仮に選別の方法と、努力資源の方向性と分けて考えてみれば、明瞭になると思う。

いや、このまま話を進めると誘導するようなことになりそうだから、やめよう。

ただ、雇用の問題として考えることがある。いわゆる求人と求職のミスマッチを考えると、求人側への支援策は有効と思う。研修なり訓練を経て、求人に応じるのか、職に就いて実質的な研修過程に対して支援するのか、みたいなことは必要ではないだろうか。次の職のための現職を含めて有効だと思う。

何か、あっちこっち寄り道してしまった。同じことを言っているような気もする。まあまあ。