最適値

最適値を追求する努力は、恐らく歓迎される。その際、追求の方向は定まってはいない。要するに、どの方向であれ、全力で努力する者を笑う人間は非難される。

では、全力で努力するなら、どの方向でも良いのだろうか。それも変な話だろう。やはり、それなりに確実性を追求することは求められる。

では、方向を探る時に判断するための基準は定められているだろうか。判断するための情報は定められているだろうか。定められているなら、変更を妨げる理由はあるのだろうか。定められていないのなら、定める必要、あるいは、定めなくても良い理由はあるのだろうか。

何も決まっていないし、全て決まったとも言える。前提を暗黙として認める無難も、前提を覆す変革も、どちらも正しそうだ。何かが適切だとする根拠は、結局は脳内の経験を経た記憶に依存することになるだろう。その説明に情報を共有する者は限定される。多いかもしれない。少ないかもしれない。

多いと賛同する者も、当然多いだろう。それは良いことだろうか。賛同する者が少ないと良くないだろうか。

ここでは、題材を決めていない。つまり、どの題材でも同じように考えを辿ることが可能だと言うことだろう。

ここで考えるのは、努力に対する投下資源だ。ひたむきに努力する者に対する自己の努力への劣等感は、どこから生まれるだろう。恐らく、何かが埋め込まれていると思われる。その追求も好奇心溢れる者にとっては、探究心を刺激するだろう。しかし、ここでは未解明事項を仮定とするか、不明とするか、謙虚に状態を明らかにするだけでしかない。その上で進める道を断定することなく、自前で提供する。そこに劣先の等感は何ら影響することはないだろう。恐らく、道を進む歩みを遅延する効果だけではないだろうか。

一度戻ろう。

対象を抽象化することで、容易に理解出来ることがある。勿論、抽象化することで排除される情報があることを前提にした話だ。

自信というものを考えた時に、他の誰からも否定されないだけの確かなものか、誰からも肯定されるだけの確かなものを想像する。恐らく、どちらも幻影だろう。しかし、自信を求めた時に、その幻影を求めることと同義のようなものと理解出来るだろうか。

自信を持つことを恐れる者は、何を恐れるだろう。そうだ。幻影を求める自分に恐れるのだろう。

最適値という概念は、一体どのように定義するのだろうか。あるいは、出来るだろうか。最適値の主張は、限定された状況で成り立つのではないだろうか。その意味を理解して初めて主張の権利を有するように思う。

ひたむきな努力が、何らかの主張とするなら、もしかしたら、劣等感はそこに見つかるのかもしれない。難しい。

冷静に深く根拠を理解して評価すれば良いだけではある。

確かに、今日も酔っている。支離滅裂かもしれないが、多分正直に言っている。割り引いて欲しいというのは、わがままだろう。

最適値は、個別状況で成り立つが、恒久的に成り立つことは不可能だ。その不可能であることは、容易に証明出来る。つまり、最適値を追求することを恐れる必要はないが、追求して結果を獲得する愚は避けることが望ましいだろう。

ある最適値と別の最適値は、通常同一ではない。そこに優劣の比較の意味があるだろうか。条件に応じて最適値は異なるだろう。その条件を無視して、結果だけの優劣という結果を求めてはいないだろうか。

何らかの判断には、判断のための情報という材料が存在する。深く根拠とする情報を追求しなければ、判断の結果だけが表層に出現する。事態は、表層だけで構成されている訳ではない。

人間は、効率を追求する側面を持つ。事態の判断を表層情報だけで成すことを効率的と考えやすい。そして、気づかずに過ごしやすい。その難しさは、どのように避けることが出来るだろうか。

色々と難しいことはあるようだ。難しい数式は、難しいと容易に理解出来る。いつもの日常を難しいと感じることは難しいだろう。