既知と未知

影響ある人物の原子力発電への反対の意見は、現在見通せる技術で最終処理までの採算性を理由にしているらしい。それはそれで納得しやすい。しかし、最終処理での課題がある程度解消されたら途端に変わるかもしれない。

一つ考えられるのは、超ガンマ線の照射で核分裂する可能性だ。臨界とかは中性子とかによるものとして、中性子放射を考えたいところだが、これは困難だろう。超ガンマ線ならエックス線の延長でなんとか出来そうな気がする。ただ、崩壊のようなことを起こすのかは、可能性でしかない。それで、安定した原子に分裂するなら人類にとっての恩恵になるだろう。

昨日茂木さんの番組を見た。同感で、今日読んだ本と少し関係するような感じがする。今日読んだ本に、米国の有名大学2校の比較で、どちらも同様に優秀だが片方の卒業生の活躍ぶりが目覚ましい理由を挙げている。その本では、「バンカラ」という言葉で説明していたが、既成の考え方にとらわれない挑戦的な姿勢のようなこととしていた。それが似ている。

ここでは、既知と未知の区別で考える。既知の世界で安定した結果を出すことに価値を持つことと、既知の世界では限界があるから突破する試みに価値を感じることとして分けてみよう。

安定した結果と比較する時に、何が特徴的だろう。未知の世界への挑戦とするなら、未知と挑戦とどちらに重きを感じるだろうか。挑戦という言葉には、何か感動と近似した響きがあるような気がする。だから、あえてより無感動な未知という言葉を使用する。

活動領域を拡張する場合、必ずしも安定的に拡張という結果が保証されていない。つまり、未知の情報が暗黙として存在する。そして、試みの失敗はその未知の情報の幾つかを既知に置き換えることが多い。つまり、結果に無関係に試みは価値を持つ。

必ずしも先端分野とは限らない。既知の分野でも、新たな事象が出現するかもしれない。それを見逃さない感性は、上記と同じ理由と思われる。

そして、長寿企業も同型の理由で裏付けられると考える。経営環境は未知の領域かもしれない。個人としての社員は、既知の世界に閉じずに未知の世界の開拓が暗黙として要請されているのだろう。

既知と未知として対照的にすると、守破離に似ているように思う。既知として自分のものにしたら、その先の新たな領域に踏み出して工夫していくようなものだろう。

一度戻ろう。

受験秀才と一応考えてみよう。それは、既知の力の発揮を明らかにしたものと考えられる。現代社会では、既知の世界での生産性向上が進化しているから、求められる力は未知の世界のものと考えられると言えないだろうか。もし、要請される力の領域が未知の世界なら、先の受験秀才と反するようなものだろう。その先は誘導のような感じがするので、やめよう。

政治的中庸は既知の世界の価値観で、政治的リスクは未知の世界の価値観と考えられないだろうか。

裁量権も、一定の範囲に限定されるなら、未知の世界として歓迎されることも考えて良いと思われる。

色々と括り方の整理は必要だが、様々なところで既知と未知で整理出来そうな気がする。