使用資源最適化

教育は、二つの見方があると思う。一つは、想定の知識を保有する過程としての環境適合を目的とする見方であり、もう一つは、受ける者の可能性を追求する支援を目的とする見方だ。前者の見方は、権力者の都合の良い人間を作り出すと見なされる危険性を孕んでいる。

だから、権力者が教育を語ることは、極力回避して、受ける側が自主的に自由に選択することが望ましい。それが、歴史から学ぶことだと思う。そして、受けられる教育を幅広く用意することが望ましいと考える一方で、用意への費用を考慮する必要がある。仮に費用を最小化すると一律教育という結論になってしまう。

受ける側の自由を追求すると、例えば、陸上競技と絵画の授業を多くして、身体と感性を磨くことを追求し、その他の科目を最低限とする要望に応えようと、教員免許はないが社会で活躍する選手や絵描きを講師に招くとする発想を否定しない。

生活基盤がある程度整備されるなら、清貧生活も可能性追求過程と認知されることも、リスクに果敢に挑戦する起業も、結果的に社会に貢献することになるかもしれない。その選択より会社の社員が望ましいとする考えを否定することではない。一律のような価値観としては批判的というだけである。

年少者を経験で語るなら、自己の使用資源を適切に最大化につなげようとする者は、それなりに活躍する。逆に、指示を待っていたり、失敗を恐れて当初から自己防衛の姿勢だったりする者は、活躍を見たことがない。恐らく、多くの企業で似たような状況だと思う。

上記の話と矛盾するようだが、社会適合の想定は、自己の使用資源最適化の経験のような気がする。より最適な方法を常時探索することが備わると、受け入れる側は歓迎するのではないだろうか。

ここでの使用資源最適化とは、何かを目的とするか、ある基準でより高い評価を獲得する為に、使用可能な資源、つまり、自己の努力や他人の力、道具、情報、その他使えるもの全てを自分基準の評価軸、つまり、最短時間なのか、最大成果なのか、みたいな自分だけのものさしで判断して実行することを指す。

どこか行き先不明になりそうだから、やめよう。

色々なことを言いたい気持ちがあるから、また、あちこちふらふらしている。教育、多様な生活、人材、起業、のようなことを詰め込もうとしている。無茶だ。

この辺りのことは、少し時間をおこう。一つ一つ丁寧な方法が良さそうだ。

ただ、一つだけ触れよう。未知のことは、自己限定の未知と人類の未知がある。しかし、人類の未知と考えるなら、気持ちは高揚する。それくらいの大馬鹿者は、成功する確率は高いような気がする。他人に説明しなければ、常識ある人間で通用するから、多分、大丈夫。

経営者も似ている。経営環境は、固有だから、多くは未知だ。最適値も、未知だ。結果論は、考古学だろう。考古学的な評価と、未知の最適値探索と、見方を分けるなら、後者の見方の立場を支持する。

少し、色々整理しよう。