経済学的実験と道徳教育

昨日の書き込みは、励ましの意味が強い。空回りしているが、それなりの高さが要求されているから、例えば、創業者並みの心構えを持った人間が考えるようなことだと思う。それだけの人材が投入出来るなら、政治的リスクを持って対策に励む人は自然と生まれると考える。

道徳教育の話があるようだ。これに対しては、少し難しい。教育の話ではないと考える一方で、それが求められる社会という実態も認めざるをえないからだ。感性としては、考えてもらう機会の提供の位置づけで、実効性によって考えることから社会的要請に応える結果を期待したい。

簡単に言えば、直線的に何かを伝える形態では実効性を疑い、自ら真剣に考えることで納得するようなことを想定している。ここで、実効性としては、経済学的実験のようなことを教室で行えば、それなりに客観的事実を体験すると考える。実験には色々ありそうだから、何が適切かは、教師なり委員会なりの判断に任せることが良さそうだ。

実験で、容易に独占の弊害や公平の機会を失うことでの損失とか、複数の協力が単独の合計より効果的であるとか、そのような実験結果はあるようだから、それらが、実際に再現されれば、体験することになるし、再現しなければ、報告が必要だろう。

道徳教育で、過去事例を学ぶことも大切だと思う。歴史としては学校で学ぶ機会がなさそうな、「いい話」は幾らでもある。日本人が外国人に対して誇れるような四方山話は沢山あるだろう。

恐らく、勉強としてより、経験的に考える材料を受け入れる方が、理性的というより動物的に身にしみると思う。一週間経過したら忘れるような授業より、大人になっても失わないものみたいなことを指している。

その見失わないものが、現在の大人が考える内容と異なるかもしれない。それはそれで尊重するくらいで丁度良いのではないだろうか。

オリンピック選手に対する考えも、世代や時代によって異なるのではないだろうか。それくらい感性が異なると考えれば、尊重することも理解出来る。

恐れているのは、社会規範の押しつけだ。ある規範が正しくて、それ以外は正しくない、みたいな考え方はやめて欲しい。これを直線的と考える。

一人の人間を理解することくらい難しいことはない。赤ちゃんを観察して、どれだけのことが理解出来ると考えるのだろうか。その謙虚さがあるのと、ないのと、その違いには、雲泥の差があると思う。恐らく、そのような感覚が身につくと社会の要請に応えるものになるような気がする。ん?直線的かもしれない。