寄付文化

お金持ちの使途がどのようなものかは、わからない。しかし、寄付はそれなりにあるだろうと推測する。

寄付をする動機は様々だから、ここで狭い範囲に閉じ込めることはしないが、寄付のその後の行方に無関心ということはないだろうとは想像出来る。つまり、透明性は欠かせない。

基金のように、恒久的に維持して運営されると、いわゆる生態系化すると思う。多分、単年度で消費される金額より少額になるだろうが、社会に組み込まれる意味は強力だと考えられる。だから、資金運用の利益で運営費に充当する方法が望まれる。

社会の問題は色々ある。政治で解決する方法と、それを補完する方法があると思う。宗教は補完的な典型的存在だろう。寄付先の組織も補完的な存在と言える。

つまり、政治として税金のふさわしい使途か、それを補完するか、そんな定義で切り分けられるし、定義する必要があるのではないだろうか。

社会保障は、その対象になると考えられる。税金として最低限のことを定めるが、十分とは考えられない者たちが自由に行うことを妨げることもない。

広く社会問題の解決を目的とするなら、寄付先としての環境整備は必要だろう。運営の中身ではなく、運営としての環境という意味だ。

所得税の控除は、ある程度あるようだが、基金のような運営についてはどのようなものだろう。恐らく、不十分というより、無策だと思う。生態系化の意味で考えたい。

例えば、教育を税金だけで行えることには限りがある。算数や数学は、どこかの学年でついていけなくなると、そのまま放置状態が多いようだ。学校が救える範囲には限界があるが、任意の個人毎の進度で学習する機会を提供する機会があれば、社会的に大きな貢献になると考えられる。このような運営を想定すると、上の話が具体的に理解出来るだろう。

この場合、社会人が学習しても意味がある。高齢者こそ、娯楽目的で学習する風景は理想的にすら感じてしまう。これはこれで、誘導する意図がありそうだから、ここまでとしよう。

中身を不問にして、環境として考えたい。ただ、対象としては、中身の選択は透明性は必要だろう。

長期的に取り組む話のようだ。丁寧に透明性ある話し合いが求められる。