わかりやすさ

他人に自分を理解してもらうという意味で考えてみる。二つの方向性があると考える。一つは他人が努力する方向ともう一つは自分が努力する方向だ。

一体他人が努力する方向とは、どういうことだろうか。説明を固定していても、その説明を理解したいという欲求が否定出来ないということではないだろうか。自然と生まれる欲求は、制御不能だろう。

自分が努力することを考えてみよう。適切な努力の方向の確認は難しい。人間の判断には、バイアスが存在する。自分に自信を過剰に持つこともあるだろうし、自分に自信を余計に喪失することもあるだろうと考えられる。

他人の評価を気にするのは、日本人の特性だろうか。人類共通の特性だろうか。他人の評判を気にしないのは、強みだろうか。それは、わからない。難しい。

簡単に他人の意見を気にせず努力に邁進せよとは言える訳がない。しかし、他人を気にし過ぎることも懸念と考えたい。努力の方向には多様な方向があるだろう。つまり、どの努力も賞賛されても、否定出来ない。最適な努力は、択一ではない。

一度戻ろう。

人間というより、生き物は単純ではない。しかし、簡単にその存在を否定出来てしまう。単純ではないことを理解することは難しい。簡単に出来ることは理解することは容易だ。容易な方向が原理だろうか。

恐らく、何かについて努力することを求められているのではないだろうか。その努力が何かを定義することは困難だ。唯一解としての定義を求めるより、自身の自信の多様性に期待したい。

頑張っている人間を応援する気持ちは、わかりやすい。多分、頑張っている人間を否定する人間は非難されやすいだろう。つまり、何に対してを問わず、頑張ればわかってくれるかもしれない。