感性と要領

スキルとセンスの違いのような解説を読んで連想した。評価のために要領良く済ませようとすることが、結果的に評価以外の努力誘因を減退させたと考えた。

情報非対称という問題がある。これ自体は深いものがあるが、上の話と類似することがあると思う。例えば、偽装問題とか品質問題とか、情報非対称の問題という面と同時に、要領良く済ませようという負の面があると考える。

極論すると、評価されない影の努力を要領が悪いとみなすようなこと、その類を一括りに要領至上主義と、とりあえず名付けてみよう。

では、その逆の概念は何だろうか。評価されないことでも努力することだろうか。評価を無視して独自評価に基づく努力だろうか。多様な評価のうち少数派の評価に基づく努力だろうか。色々考えられるから、単純に反要領至上主義としてみよう。

市場原理という言葉は、何かの評価が暗黙に存在すると思われる。そこに評価が固定的に確立していると考える者だけでなく、多様の独自の評価が並行すると考える者もいると思う。つまり、要領至上主義者ばかりで充満していると、唯一評価の解釈と多様評価解釈で、どのような世界観を成立させているかと想像すると、唯一評価解釈に無理がありそうな感じがする。

とりあえず、多様評価解釈の世界観で想像すると、要領至上主義者ばかりでも、自然な感じには近づくようだ。

しかし、全体の恩恵として考えるなら、どのような社会が望ましいのだろうか。情報非対称の解消という方向性は正攻法ではあるが、ここではふさわしくはなさそうだ。つまり、恩恵の面から見た評価が唯一評価と多様評価では、どちらの方向が全体として望ましいと考えられるか、という課題で考えることになるだろう。ただ、変動という点を重視する立場からすると、唯一評価の方向は変動に弱いと考えられるから、逆方向が望ましいと思われる。

つまり、恩恵の観点で努力誘因も含まれるような評価が望ましいと導き出されるだろう。影の努力は、それ自体美しい話ではあるが、原理という見方では、原理に影響しなければ単に事態を放置していると考えられる。

それが難しい取り組みであることも承知しなければならない。抽象的には上の原理の理解でも良いが、実際には、努力と評価を結びつける具体的個別的行動になるから、情報非対称性の問題とほぼ同義という意味で理解出来る。

つまり、理屈をこねくり回したが、情報非対称性問題を丁寧に解消することは市場原理を支える行為と理解出来るだろう。

そうすると、影の努力に対しては、情報非対称性の解消という文脈で取り組む話ではないだろうか。例えば、線路やトンネルの点検を真面目に実施することを、単純に当然視するより、評価につながるような発想だろう。

もう一つの観点がある。それが反要領至上主義になるのだろう。これは、感性かもしれない。

誘導的に述べるなら、教育における重要な点は、この感性だと考えている。この点は明らかに誘導している。

そして、恐らく他人が評価する場合、客観的に感性を評価することは困難だろう。だから、情報非対称性問題と捉えても不自然ではないと思う。

起業や発明に対する遇する方法はある程度確立している。しかし、広く社会に恩恵となる努力は、いわゆるフリーライダー化されやすい。というより、フリーライダー化という認識が無さ過ぎる。このことも同質の問題に思える。

例えば、社内でリスクある仕事に取り組む誘因として、管理会計的社内仮想配当といったことは考えられるだろう。そのような取り組みを、実績評価して一般社会に適用出来るようになれば歓迎されるだろう。だから、色々な社内限定の待遇を試みることが望まれる。