長期短期

アベノミクスの解説が新聞に載っていた。明日も載るようだ。昨日は規制緩和が課題で、今日は長期が課題と解説されていた。どちらも頷ける。

今年のノーベル経済学賞は、長期の見方と短期の見方のような説明らしい。

要するに、同じものでも見方が違うと見え方が異なると解釈する。そして、木の葉の落下点の予測で、重力を重視するか、風向きを重視するか、みたいなことに似ていると思っている。多分、同意は少ないだろう。

アベノミクスに限らず、将来世代に負担を先送りしているという認識は、一定の範囲では浸透していると考えられる。では、なぜ先送りしてしまうのだろうか。単純な理由が存在するだろうか。

上に述べたように、同じものに対する見方には複数あると捉えて、先送り自体は事実と考えよう。

では、先送りを決めた者は誰だろうか。政治家という見方と、政治家を選んだ国民という見方があるのではないだろうか。多分、どちらの見方も、それぞれに成り立つだろう。だから、それぞれで考えてみよう。

政治家は、次の選挙で選出されるように行動するとしよう。すると、先送りすることが次の当選になると考えているとみなせる。

国民は、先送りすることが望ましいと考えているから、先送りする政治家を選んでいるとみなせる。

さて、このように考えると、どちらも先送りする理由になる。どこか、おかしいのだろうか。先に一定の範囲で存在するとしたことは、否定されてしまうのだろうか。

誘導的ではないが、どこかおかしいと感じるだろう。これは、先送りするという明確な意思として理屈を追った訳ではないからだろう。要するに、先送りは視野に明確ではないと考えられる。より強い関心が存在していれば、認識の容量不足とかの理由で、無関心という結果になると想定出来そうだ。

このことが、強い指導者を求める根拠とも考えられるし、国民が学習すべきとも考えられると思う。どちらの見方も、それぞれで成り立つだろう。どちらが良いかはわからない。

例えば、数%の成長率を犠牲に先送りが確実に回避出来るなら、その選択は可能かもしれない。恐らく、確実な方法は困難なのではないだろうか。地道に無駄を削減して、効率を良くすることを正攻法とするなら、その正攻法と同時並行的になすべきことを洗い出すことが必要になるのだろう。

現実を無視するなら、与野党の合意で中期的に取り組むことが自然な姿と思うが、現実的と感じられるだろうか。その感覚は、多様だ。

一定の範囲が広がることは難しいのだろうか。関心が向かわないから、視聴率が悪いという理由と同じだろうか。関心が高まれば、広がるだろうか。恐らく、重税と社会保障の重負担という状況が明確になれば、嫌でも関心が向くだろう。